日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

テイストがアメリカン・ニューシネマだった『LOGAN ローガン』

★★★

 テイストがアメリカン・ニューシネマな感じで驚いた。今のアメリカはベトナム戦争敗北時と似た精神状況に置かれているのだろうか。


映画「LOGAN/ローガン」インターナショナル版予告(字幕版)

 

ブライアン・シンガーX-menシリーズでは、ミュータントはマイノリティの比喩だった。本作はそうではない。プロフェッサーX、ローガン、ローラはマイノリティを背負っていない。単に、老年、壮年、若年を体現しているだけだ。

このことにより、リアリティは増したが、物語としての厚みは失せた。この映画で展開されるのは、老老介護と若年への希望という紋切り型の物語だ。その物語が、メキシコ国境からカナダへと北上するロードムービーとしての縦軸と、これまでのアメリカの全否定という横軸による座標平面上に展開される。

確かに、この両軸の設定は物語に彩りと目新しさを加えてはいる。

希望がアメリカにはない(だからカナダに逃げる)という設定は今風だし、これまでのアメリカの全否定(無根拠な「大量破壊兵器」のエピソードなど否定的な要素は枚挙にいとまがない)は『アナ雪』の寓話をより推し進めたかのよう(『アナ雪』と否定との関係はシネスケの拙評をご覧頂きたく)。

この救いのない設定に、小生はアメリカン・ニューシネマのテイストを感じたのだが、アメリカン・ニューシネマが徹底した閉塞感に終わっていたのに対し、ローラの存在が将来の希望を暗示してはいる。

だが、両軸上の個々のエピソード間のつながりに練り込みが欠けているために、映画としての哲学が薄い。

老老介護の重さはアメリカの全否定という暗さと通底しX軸となり、ロードムービーの軽快さは若年への希望という明るさと通底しY軸となっているが、映画としての核がないために、Z軸上の動きが生じてこない。この映画は、ひとつの作品として飛翔していないと思うのだ。

映画の核は、設定した世界観をどう観客に提示するかという哲学であるべきだが、作り手の哲学ではなくヒュー・ジャックマンパトリック・スチュワートの引退と新星ダフネ・キーンへの脚光のみがこの映画の中心になってしまっているように感じられる。哲学のない中心は核たりえない。そのために、雰囲気先行の映画になってしまっている。いささかのマーケティング臭がするご都合主義の映画に思えてしまうのだ。

問題が多いこのご時世のヒーロー映画はダークじゃなくちゃね、以上の本気を見たかった。

ただ、ラストのローガンの十字架をローラが引っこ抜いて×にするシーンには震えた。×は、当然X-menのXであり、神へのダメだしのバツである(ミュータントは神の失敗というローガンの科白が布石になっているとして。また、×はアメリカでも否定の意味になる。日本よりも強い否定。一方◯は通じないらしい)。このシーンだけで観たかいはあった。ローラの活躍する次作も観てみたい。