日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

武蔵と小次郎の史実は厳しい(今年は巌流島決闘400周年)

佐々木小次郎は福井の英雄
福井出身の一番の有名人と言えば佐々木小次郎かもしれない。そう、あの宮本武蔵と巌流島で闘った佐々木小次郎である。


武蔵の弟子達が語った内容を当時の二天一流兵法師範豊田景英がまとめた『二天記』によれば、佐々木小次郎は、越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)で生まれ、秘剣「燕返し」を浄教寺町にある一乗滝で身につけたことになっている。そんなわけで、福井の子供たちにとっては、佐々木小次郎こそが英雄であり、宮本武蔵は約束の時間に遅れてくるわ、普段から武器を両手にして闘うわと邪道を極めた卑怯者ということになっている(と楽しい)。


■小次郎は不戦勝を捨てたのも敗因
さて、巌流島の戦いでは、小次郎は、約束の決闘の時間に巌流島に着いています。ところが宮本武蔵はいっこうにやってきません。本来ならば、小次郎の不戦勝であったのですが、小次郎は不覚にも遅刻魔武蔵を待ってしまった。小次郎はここで自ら勝ちを一つ放棄しています。後日、仕切り直ししていたら勝負はどうなっていたでしょうか。


■武蔵はなんでもありの戦いで勝った
もうひとつ、武蔵は仲間を何人かつれて巌流島に上陸していますが、小次郎はたった一人で決闘にいどみます。これがまずかった。武蔵の武器は、小次郎の長刀に負けぬ長さに削った船の櫂(オール)で作った木刀です。木刀は真剣に比べれば軽い。長刀と比べればなおさらです。だから小次郎より素早く立ちまわることができ、小次郎の脳天に一撃喰らわすことができました。

しかし、木刀の一太刀で相手を絶命させることができるはずもなく、息を吹き返した小次郎は、武蔵の連れてきた連中に集団で襲われて絶命したと細川藩家老の門司城代であった沼田延元の記録をまとめた『沼田家記』にあるそうです。決闘後に小次郎の弟子達の報復を恐れた武蔵は沼田家にかくまわれています。そのときの出来事が記録として残っているのです。しかもこの戦いのとき、武蔵は十九歳、小次郎の年齢は五十代だったそうです。決闘を申し込んだのも武蔵の方からでした。若者が一人の熟年を集団で殺害した、というのが、実際の巌流島の戦いです。


■史実の武蔵にこそ学ぶべき
ところが大変残念なことに、この巌流島の戦いは、吉川英治の小説『宮本武蔵』があまりに有名になったため、この小説をもとに作られた大河ドラマなどの二次制作のヒットもあいまって、美化されすぎた宮本武蔵のイメージが日本中に広まってしまいました。

宮本武蔵の真の価値は、吉川英治の書くような、スマートな武蔵像にあるのではなく、ルールを都合よく自分なりに解釈して相手をはめ、年長者に対しても敬いの心など一切持たず、一対多での戦いにも良心の呵責など何も持たない、決闘を美化しない姿勢にこそあります。

戦いに徹するということは綺麗事ではないはずです。そして老成してから綺麗事を筆で残せばよいのです。なんでもありの国際社会や、プロレス好きの首相のもとで繰り広げられるバーリトゥードな日常で、我々が学ぶべきは、小説の綺麗な武蔵ではなく、史実としてのなんでもありの武蔵なのです。

小次郎が負けたことが重要なのです。それを当時の人はわかっていた。だから巌流島は武蔵島ではなく巌流島なのです(島の名前は、決闘後に佐々木小次郎の号である巌流にちなんで付けられた)。巌流島決闘400周年の今年こそ、ぜひ福井を訪れて、負けた小次郎に思いを馳せ、その敗北から今を生き抜く生き方を学んでみようではありませんか。


小次郎が燕返しをマスターした福井県の一乗滝


生き残ればこんな本も書けるという風に読むとより感慨深い

五輪書 (岩波文庫)

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