日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

若狭姫神社・若狭彦神社

神社で写真を撮ると、このように柔らかい光がとても綺麗に写り込むことがあります。神社の向きは方角が決まっていて、逆光+木漏れ日になるからでしょうね。
■若狭姫神


■若狭彦神社


若狭姫神社と若狭彦神社とは二社一体で若狭国一之宮になります。若狭姫と若狭彦を合わせて遠敷明神といい、この神様が最初に降誕されたところは白石神社になっています。遠敷明神をまつってある天台宗若狭神宮寺は奈良の東大寺へのお水送りで有名です。

遠敷は「おにゅう」と読み、もともとは小丹生であったのを和銅6年(713年)の好字二字令により遠敷の二字が宛てられたそうです。丹生といえば、水銀を扱う古代部族の丹生氏のことで、奈良の大仏の建造には大量の水銀が使われたことは以前にこのブログでも書きました(http://d.hatena.ne.jp/ropebreak/20120704)。また、東大寺を開山した良弁僧正は白石出身です。


お水送りする遠敷井の北西には飛鳥という土地があり、蘇我氏とゆかりがあります。また、丹生といえば空海との関係もありますから、若狭と奈良とは歴史的にずっと大変深い関係があったと言えます。このあたりのことは、あらためて整理してみたいと思っています。

御神島

常神半島の民宿では、御神島への舟を出してもらえる。御神島は福井県最大の無人島でとてもワイルドな海水浴が楽しめる。


■舟から見た御神島


■プールでは一キロ泳ぐ長男も海は勝手が違うようで浮き輪着用。でもこのあとちゃんと浮き輪無しでブイまで泳ぎきりました。


■初体験の海が無人島になってしまった長女。ワイルドですね。

常神半島


帰省がてら嶺南に足をのばす。越の国から大和への移動である。空を舞う何組ものつがいのトンビに導かれて常神半島へ。


■常神半島に向かうレインボーラインでは野生の鹿がお出迎え


■野生のサルまで


■動物たちをびっくりさせないようにゆっくり走っていたら日没の時間になってしまった。日本海の日没は美しい。


■空と海とが溶け合う時間だ。


樹齢千三百年ともいわれるソテツのすぐ隣に宿をとった。常神のソテツは国の天然記念物に指定されている(常神のソテツ 若狭町観光情報 Discover Wakasa)。

帰省


母方の爺ちゃんの一周忌と婆ちゃんの米寿を祝いに家族で福井に帰省した。


■20年来の愛車E36とまずは父方の墓参り


■米寿を迎えた婆ちゃんと母の実家の農舎の前で。まだまだ元気でほっとする。

武蔵と小次郎の史実は厳しい(今年は巌流島決闘400周年)

佐々木小次郎は福井の英雄
福井出身の一番の有名人と言えば佐々木小次郎かもしれない。そう、あの宮本武蔵と巌流島で闘った佐々木小次郎である。


武蔵の弟子達が語った内容を当時の二天一流兵法師範豊田景英がまとめた『二天記』によれば、佐々木小次郎は、越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)で生まれ、秘剣「燕返し」を浄教寺町にある一乗滝で身につけたことになっている。そんなわけで、福井の子供たちにとっては、佐々木小次郎こそが英雄であり、宮本武蔵は約束の時間に遅れてくるわ、普段から武器を両手にして闘うわと邪道を極めた卑怯者ということになっている(と楽しい)。


■小次郎は不戦勝を捨てたのも敗因
さて、巌流島の戦いでは、小次郎は、約束の決闘の時間に巌流島に着いています。ところが宮本武蔵はいっこうにやってきません。本来ならば、小次郎の不戦勝であったのですが、小次郎は不覚にも遅刻魔武蔵を待ってしまった。小次郎はここで自ら勝ちを一つ放棄しています。後日、仕切り直ししていたら勝負はどうなっていたでしょうか。


■武蔵はなんでもありの戦いで勝った
もうひとつ、武蔵は仲間を何人かつれて巌流島に上陸していますが、小次郎はたった一人で決闘にいどみます。これがまずかった。武蔵の武器は、小次郎の長刀に負けぬ長さに削った船の櫂(オール)で作った木刀です。木刀は真剣に比べれば軽い。長刀と比べればなおさらです。だから小次郎より素早く立ちまわることができ、小次郎の脳天に一撃喰らわすことができました。

しかし、木刀の一太刀で相手を絶命させることができるはずもなく、息を吹き返した小次郎は、武蔵の連れてきた連中に集団で襲われて絶命したと細川藩家老の門司城代であった沼田延元の記録をまとめた『沼田家記』にあるそうです。決闘後に小次郎の弟子達の報復を恐れた武蔵は沼田家にかくまわれています。そのときの出来事が記録として残っているのです。しかもこの戦いのとき、武蔵は十九歳、小次郎の年齢は五十代だったそうです。決闘を申し込んだのも武蔵の方からでした。若者が一人の熟年を集団で殺害した、というのが、実際の巌流島の戦いです。


■史実の武蔵にこそ学ぶべき
ところが大変残念なことに、この巌流島の戦いは、吉川英治の小説『宮本武蔵』があまりに有名になったため、この小説をもとに作られた大河ドラマなどの二次制作のヒットもあいまって、美化されすぎた宮本武蔵のイメージが日本中に広まってしまいました。

宮本武蔵の真の価値は、吉川英治の書くような、スマートな武蔵像にあるのではなく、ルールを都合よく自分なりに解釈して相手をはめ、年長者に対しても敬いの心など一切持たず、一対多での戦いにも良心の呵責など何も持たない、決闘を美化しない姿勢にこそあります。

戦いに徹するということは綺麗事ではないはずです。そして老成してから綺麗事を筆で残せばよいのです。なんでもありの国際社会や、プロレス好きの首相のもとで繰り広げられるバーリトゥードな日常で、我々が学ぶべきは、小説の綺麗な武蔵ではなく、史実としてのなんでもありの武蔵なのです。

小次郎が負けたことが重要なのです。それを当時の人はわかっていた。だから巌流島は武蔵島ではなく巌流島なのです(島の名前は、決闘後に佐々木小次郎の号である巌流にちなんで付けられた)。巌流島決闘400周年の今年こそ、ぜひ福井を訪れて、負けた小次郎に思いを馳せ、その敗北から今を生き抜く生き方を学んでみようではありませんか。


小次郎が燕返しをマスターした福井県の一乗滝


生き残ればこんな本も書けるという風に読むとより感慨深い

五輪書 (岩波文庫)

五輪書 (岩波文庫)

日本のレイライン


七月のお盆(最近は八月の方が多数派ですが)よりちょっと遅れて、今週の後半は、お墓参りに家族で帰省の予定です。田舎は越前なのですが、子供の夏休みの自由研究も兼ねて大飯原発のある若狭・敦賀の方にも足を伸ばしてくるつもりです。


福井県は歴史的に、古くは大和の一部だった嶺南地方(若狭・敦賀)と越の国の中心だった嶺北地方(越前)に大きく二つに分かれていることもあり、この二つは、ずっと時代を下って江戸時代の藩でも別々だったものですから、実はあまり交流はありません。


ですが、311以降、福井といえば大飯原発、もっと嶺南のことも知らなければと思い続けてきました。そもそも日本という国のなりたちが、越の国の王を大和が大王として迎え入れてから急速に統一が進んだのですから、もっと相互に交流があってもよさそうなものです。


ということでいろいろ調べてみたのですが、嶺南も歴史的にいろいろ興味深いですね。大戦時の杉原千畝の話しくらいしか知らなかったのですが、古代史もかなり興味深い。学生時代に、日本の中心は、御神島だとどこかの神主さんの書いた文章を読んだ記憶があったのですが、日本のレイラインだったのですね。レイラインというのは ley line のことで、英国の市井の考古学者アルフレッド・ワトキンスが、直線上に配列されている古代の遺跡を結ぶ線のことだそうで、考古学的には聖方位とも関係ありそうです。


尤もレイライン自体は、オカルティックな方面でも人気のある考え方だそうで、この辺の線引きは、なかなか難しいのかもしれません。ただ、古代は現代より人々が真剣に呪術的な思考で生きていたわけで、純粋に古代史ロマンとして夏休みに探求してみることはそれほど悪趣味ではないはず、と思っています。海と湖がきれいで山も古社もあり聖なる杜もある。それに、美味しい海の幸と原発。今年の夏は濃く暑くなりそうです。


日本のレイライン


聖方位と言えば、栗本慎一郎氏ですね。代議士のとき、とあるイベントでご一緒したことがあります。

シリウスの都 飛鳥―日本古代王権の経済人類学的研究

シリウスの都 飛鳥―日本古代王権の経済人類学的研究


YMO世代にとってはこの本が思い出深い

観光―日本霊地巡礼 (ちくま文庫)

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