攻殻機動隊2.0

cinemascapeにこんなようなの書いた。以下、ネタバレあり。


オシイ攻殻機動隊シロマサ攻殻機動隊(原作)の世界観の真逆を張っている。そのことが、人形使いの声優が家弓家正から榊原良子になってよりいっそう明らかになった、と思う。


シロマサ攻殻機動隊で、草薙素子人形使いとの融合を受け入れたのは、新たなる可能性への好奇心からだった。ゴーストを持つ史上初のネット生命体である人形使いが完全な生命体となるために草薙素子を欲した、その人形使いの動機こそが素子の琴線に触れた、だから融合した。「私が私でいられる保証は?」「保証は全くない。人は常に変化するものだし私もその機能を欲している…」つまり融合の結果はバージョンアップということである。そして素子はそれに魅力を感じた。


ところが、オシイ攻殻機動隊では、草薙素子への人形使いの融合への誘いは、同時に死への誘いに変質させられている。「私が私でいられる保証は?」「その保証はない。人は絶えず変化するものだし、君が今の君自身であろうとする執着は君を制約し続ける。」ここで人形使いの言う「執着」とは素子の生への執着を暗示している。なぜなら、このやりとりの直前の対話で、結合がタナトスと引換えであることが明示されているからだ。「融合したとして私が死ぬときは?遺伝子はもちろん、模倣子としても残れないのよ?」「融合後の新しい君は、ことあるごとに私の変種をネットに流すだろう。人間が遺伝子を残すように。そして私の死を得る。」つまり結合はバージョンアップではなく、代謝なのである。(原作のこのやりとりは微妙にしかし確実に違うニュアンスで行われている。興味のある方は直接確認して欲しい)


シロマサ攻殻機動隊での草薙素子は(そしてS.A.C.ではなおさら)大人の女性として描かれていた。人形使いが最後に逃げ込んだ義体は女性型だったが、融合の場面は明確に成人男女の営みを比喩として描かれている。ところが、オシイ攻殻機動隊での草薙素子の精神段階は、成人に達していない。なにしろ自分に責任を持った生を生きてはいないのだ。人をあやめる可能性のある職業についていながら思春期の少年のような未熟な自己認識に甘んじている。「もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか、いやそもそも初めから私なんてものは存在しなかったんじゃないかって。自分の脳を見た人間なんていやしないわ、所詮は周囲の状況で”私らしきもの”があると判断しているだけよ。もし電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿すとしたら?その時は何を根拠に自分を信じるべきだと思う?」「くだらねえ」バトーならずとも、大人の容姿をした人間に目の前で唐突にこんな甘ちゃんの台詞を吐かれたら白けてしまう(もし存在論的な意味合いを問うことを主眼とした台詞にしたいのだったら、甘えた言い方にすべきではなかった。演出が悪すぎる。これじゃあまるで『中学生日記』だ。原作でこれに相当する素子の台詞が発せられるシーンは喫茶店での友達との会話に於いてであり、だからこその意外な怖さとリアリティが完璧に台無しになっている)。


人形使いに「私たちは似たもの同士だ。まるで鏡をはさんで向き合う実体と虚像のように。」と言わせ、素子がそれを否定せず融合するということは、人形使いとの融合が生命体としての成人の健全な営みではないことを意味する。そのことは、人形使いの声優が男性である家弓家正から女性の榊原良子になったことにより、より明らかになった。融合は、未来への意志ではなく、単なる肥大化した自己愛の絶望の儀式となってしまった。草薙素子は自殺した、そう考えるのが適切だと思う。


昨今のネット事情を見れば、シロマサの描く世界より押井の描く世界の方がより実際の世相を反映しているのかもしれないが、それは押井の洞察力の故というよりは、押井の作家性の幼形成熟ネオテニー性)のなせる単なる符合なのではないかと思っている。


そして今、世界に必要とされているのは、オシイ攻殻機動隊の未熟な素子ではなく、シロマサ攻殻機動隊のたくましく成熟した草薙素子なのではないだろうか。


追.大人になることは存在論的な疑義を不問に付す生き方をするということだ、と言いたいわけではない。逆に、常に存在論を問い続けることに耐えうる生き方をも選択肢に入れた生き方ができるということだ。私は存在しないのかもしれないという問いはサイバー社会でより顕在化するのかもしれないが、その問い自体は新しいものではない。空海を挙げるまでもなくむしろ日本仏教の伝統的な問いと言って良い(色即是空、空即是色は子供でも知っているフレーズだ)。原作から日本的意匠を丁寧に外した押井だからこそ、その問いに大人の答えを用意して欲しかった。舞台を中国人街に変更し、融合の場面の背景を、カバラの奥義、生命樹というよりは天御柱ね、と書いたシロマサの原作からわざわざカバラの生命樹に変えて描き込んだ理由は、海外で売らんがためのさもしい理由のみであっては欲しくないのである。