日本のレイライン
七月のお盆(最近は八月の方が多数派ですが)よりちょっと遅れて、今週の後半は、お墓参りに家族で帰省の予定です。田舎は越前なのですが、子供の夏休みの自由研究も兼ねて大飯原発のある若狭・敦賀の方にも足を伸ばしてくるつもりです。
福井県は歴史的に、古くは大和の一部だった嶺南地方(若狭・敦賀)と越の国の中心だった嶺北地方(越前)に大きく二つに分かれていることもあり、この二つは、ずっと時代を下って江戸時代の藩でも別々だったものですから、実はあまり交流はありません。
ですが、311以降、福井といえば大飯原発、もっと嶺南のことも知らなければと思い続けてきました。そもそも日本という国のなりたちが、越の国の王を大和が大王として迎え入れてから急速に統一が進んだのですから、もっと相互に交流があってもよさそうなものです。
ということでいろいろ調べてみたのですが、嶺南も歴史的にいろいろ興味深いですね。大戦時の杉原千畝の話しくらいしか知らなかったのですが、古代史もかなり興味深い。学生時代に、日本の中心は、御神島だとどこかの神主さんの書いた文章を読んだ記憶があったのですが、日本のレイラインだったのですね。レイラインというのは ley line のことで、英国の市井の考古学者アルフレッド・ワトキンスが、直線上に配列されている古代の遺跡を結ぶ線のことだそうで、考古学的には聖方位とも関係ありそうです。
尤もレイライン自体は、オカルティックな方面でも人気のある考え方だそうで、この辺の線引きは、なかなか難しいのかもしれません。ただ、古代は現代より人々が真剣に呪術的な思考で生きていたわけで、純粋に古代史ロマンとして夏休みに探求してみることはそれほど悪趣味ではないはず、と思っています。海と湖がきれいで山も古社もあり聖なる杜もある。それに、美味しい海の幸と原発。今年の夏は濃く暑くなりそうです。
日本のレイライン
聖方位と言えば、栗本慎一郎氏ですね。代議士のとき、とあるイベントでご一緒したことがあります。
- 作者: 栗本慎一郎
- 出版社/メーカー: たちばな出版
- 発売日: 2005/10
- メディア: 単行本
- クリック: 7回
- この商品を含むブログ (13件) を見る
YMO世代にとってはこの本が思い出深い
- 作者: 中沢新一,細野晴臣
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1990/03
- メディア: 文庫
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (16件) を見る
プロテインをおいしく飲むひと工夫な裏技[いちごチョコ味編]
■イチゴ味プロティンにバンホーテンでもいける!
プロテインをおいしく飲むひと工夫として、これまでに、ココア味(2012-06-07)とイチゴ味(2012-06-08)について紹介してきたが、イチゴ味にココア味をおいしく飲む裏技であるバンホーテンを混ぜてみたら、意外とおいしくできたので、紹介します。
ウイダーホエイプロテインストロベリー味を付属のスプーンで3杯プロテインシェーカーに入れます。これに、バンホーテンのココア(ブルー缶が口が広くてオススメ)をウイダーホエイプロテインココア味に付属のスプーンですりきり一杯加え、牛乳を200mL入れて思いっきりシェイクします。
これでできたドリンクの味なのですが、小さい頃よく食べた明治製菓のストロベリーチョコレートにそっくり。とても懐かしい味なのです。きっちり運動したあとに童心に帰る。そんな体験してみませんか。お薦めです。
ベースはストロベリー味
- 出版社/メーカー: 森永製菓
- メディア: ヘルスケア&ケア用品
- この商品を含むブログを見る
これにバンホーテンのココアを入れる
http://www.kanshin.com/keyword/1991515
シェーカーで振るだけで少しずつ溶かさなくても一発で冷たいココア入りドリンクができる
- 出版社/メーカー: 森永製菓
- メディア: ヘルスケア&ケア用品
- 購入: 19人 クリック: 34回
- この商品を含むブログを見る
ルネ・マグリットのシューズ
私は、五本指のソックスは嫌いだが、五本指のシューズはたまらなく履いてみたい。最近は、五本指のソックスをはいている人は、ぱらぱらと見かけるようになったが、五本指のシューズを実際に履いてトレーニングしている人には、いまだかつてお見かけしたことがない。
五本指のシューズには独特の開放感があるそうだ。ジムでトレーニングをすると身体が解放されるので、私はいつもトレーニングの途中で自分の履いている硬いシューズが恨めしくなる。五本指シューズの開放感はいかばかりだろうか。
しかしながら五本指のシューズを履くためには、五本指のソックスを履かなければならない(註)。これは厳しい。五本指のソックスは美しくないんだよね。よくある綿の五本指ソックスは、水虫防止オーラが出過ぎていて、これを履いている人を見ると足が相当臭いんじゃないかと勝手に思ってしまう。五本指ソックスは守りの機能だ。守りの機能美は美しくない。カラフルな五本指のソックスが普通になるといいんだが。
それにひきかえ、五本指シューズには攻めの機能美がある。五本指シューズで代表的なVibram FiveFingers について書かれたwiredの記事を引用してみよう。もうすぐにも履きたくなるではないか。
Vibram FiveFingersは、驚くほど履き心地も良い。指が小さなポケットにすんなりおさまるため、楽なだけでなく、踏みしめた地面の感触も非常によく伝わってくる。いつもの革の牢獄から解放されたつま先は、トポグラフィー装置のセンサーアレイのように敏感になる。
Vibram FiveFingersを履いて走るのは、裸足で走るのとよく似ている――そして、砂利道や焼けるように熱いアスファルト道路に出くわしても悲鳴を上げずに済むという利点がある。
裸足で走ることは、靴で走ることとは違う体験だ。裸足で走る場合は、靴の場合と比べてより大股で走り、衰えたふくらはぎや土踏まずの筋肉を使用する必要がある[動画参照]。だが、そうするだけのことはある。より効率良く大股で走ることによって、正直言って走るのが遅い私が、1マイル(約1.6キロ)当たり1分近くタイムを縮めることができたのだ。
「ほとんど裸足で走れる5本指シューズ」の利点 « WIRED.jpより
肉体の開放感が得られてなおかつタイムが上がる。こんなに素晴らしいことはない。おまけにwired にはこんな素敵な Vibram FiveFingers の写真が掲載されている。
でも、私はVibram のオンラインショップを見ていて気付いてしまった。これはルネ・マグリットの描くブーツなのだと。ルネ・マグリットの『赤いモデル』は、産業消費社会が肉体を浸食してしまう近未来の予言的戯画だったのではないかと思うのだが、それが現実化した今、私は逆にルネ・マグリットの靴を履いて、自らの肉体を再認識する快楽を求めているのかもしれない。
Vibram Men's TREK LS Tan Brown
Barefootinc.jp/TOPページ
ルネ・マグリット 「赤いモデル」 1935年
(註)シューズによっては洗濯機で洗えるものもあり、裸足で履けるそうです。
フェルツマンのバッハ
私にとってグレン・グールドのバッハは、大脳をニュートラルに戻す整体の役割を果たしているのに対して、想像上の彼岸への旅を可能にしてくれるのが、ウラジーミル・フェルツマンの弾くバッハである。理知的なグールドに対して、叙情的なフェルツマン。共通項は超絶技巧のみ。この人のピアノはもはやピアノではなく、何か精神に働くスイッチのように思えてくる。人が弾いているのに天国の音楽を思わせる。神との直接対話を願ったバッハの解釈としてこのピアノはとてもありだと思うのだ。
フェルツマン、まだ聴いたことのない人はぜひ体験して欲しいと思う。
彼岸への誘いといえば「主よ、人の望みの喜びよ」
このアルバムはラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」など名曲集になっている
- アーティスト: フェルツマン
- 出版社/メーカー: (株)カメラータ・トウキョウ
- 発売日: 2005/01/20
- メディア: CD
- クリック: 1回
- この商品を含むブログを見る
フェルツマンのバッハの特長が最も出た一枚を選べといわれたらこのパルティータを推す
- アーティスト: フェルツマン,バッハ,フェルツマン(ウラディミール)
- 出版社/メーカー: (株)カメラータ・トウキョウ
- 発売日: 2005/01/20
- メディア: CD
- 購入: 1人 クリック: 2回
- この商品を含むブログ (7件) を見る
レアもの自慢6:『水牛楽団』高橋悠治、他
■高橋悠治氏といえばエリック・サティだが…
高橋悠治というピアニストを知っている人には別にレアものではないだろうし、知らない人にはレアもの自慢しようがない。『水牛楽団』はそういう作品である。
高橋悠治のピアニストとしての代表作は、一連のエリック・サティの作品集だと思う。1976年から80年にかけて収録されたこのサティの作品集は、まるでその後のバブル経済を体験してきたかのように寂寥感のある爛熟味に溢れている。100年強前のフランスの文化の爛熟の中に生まれたサティの作品を高橋氏以上に現代に甦らせることができたピアニストは、私の聴く限り世界にもいないと思う(ちなみに私は高橋悠治の弾くバッハは苦手である)。とにかく心に沁みるサティの演奏である。
そんな高橋氏は、他に二つの全く異なる音楽家としての顔を持っている。一つは現代音楽の作曲家としての顔で、もう一つが水牛楽団という民衆音楽楽団の主宰者としての顔だ。
私は、現代音楽の方は不勉強で聴いてもよくわからないので、現代音楽の作品群については何も書くことができない。
■各国の民衆の抵抗歌を演奏する『水牛楽団』
水牛楽団は、1978-85年に活動していた楽団で、楽団自体はもうないが、今も水牛の名前はサイト名として生きている(suigyu 水牛)。
この水牛楽団による『水牛楽団』というアルバムは、アジアを中心とした各国の民衆の抵抗歌を、ケーナ(西沢幸彦)、タイコ(八巻美恵)、ハルモニウム(福山伊都子)、大正琴(高橋悠治)、歌(福山敦夫)で演奏したもので、サティの演奏に伺える洗練とは真逆の演奏である。
楽団名のもととなったタイの生きるための歌を代表する「人と水牛」、パレスチナの難民キャンプの子供たちが書いた願い事に曲を付けた「パレスチナの子どもの神さまへのてがみ」、1980年に金大中氏が東京で拉致されたときに現場に落ちていた手帳に書かれた文章に曲を付けた「時がくれば」など全17曲が収められている。
Youtubeで首相官邸前のデモの様子の映像を見ていたら、私の頭の中で、ふいに水牛楽団が演奏を始めたのだった。
USED品を含めamazonや楽天では取り扱いがない
水牛楽団 - CDJournal←曲名はこちらから
官邸前のデモの様子
素晴らしいサティの演奏
- アーティスト: 高橋悠治,サティ
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2010/09/22
- メディア: CD
- 購入: 1人 クリック: 10回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- アーティスト: 高橋悠治,サティ,水野佳子
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2004/03/24
- メディア: CD
- 購入: 1人 クリック: 22回
- この商品を含むブログ (12件) を見る
- アーティスト: 高橋悠治,サティ,プラネス(アラン),岡崎耕治,村井祐児
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2004/03/24
- メディア: CD
- クリック: 21回
- この商品を含むブログ (12件) を見る
教養
私には会うと必ずといっていいほど口論ないしは討論になってしまうほど、ほとんどのことについて意見の食い違う大学来のありがたい友人がいる。ありがたいというのは皮肉ではなく、主義信条は友情を左右しないということを教えてくれる文字通り有り難い存在だ。
討論になれば、当然勝った方が嬉しいが、まれに勝っても嬉しくないことがある。数年前のことだが、その彼とJRの駅でばったりいっしょになり、そのまま30分ほど電車内で話し込んだ。ちょうどその頃、お互いの子供が小学校に上がった時分で、将来子供にどんな教育を受けさせたいか、とかそういう話題になったかと思う。話はそれて、教養とは何か、ということについての議論になった。そんな議論をするつもりはまるきり無かった。
■教養は政治
彼は、教養は普遍だ、はやりすたりのある知識ではなく、普遍的な知識を子供に身につけさせたい、と言った。僕は、教養は普遍でも不変でもなく政治だ、ととっさに返していた。自分でも何でとっさにそんなことを言ったのか不思議だった。口が勝手に言ったような感じだった。
当然、彼は食ってかかってくる。法律はしょっちゅう変わる、プログラミング言語もぞくぞく新しいのが開発される。経営スタイルだって時代とともに変わっていく。だから法学や情報科学や経営学のような実学を身につけさせても、社会に出て十年もたてば時代遅れになる。その点、リベラルアーツは古くならない上に応用がきく。というようなことを言って彼は同意を求めてきた。
そうだろうか。教養は政治だよ。そんなこと考えてもいなかったのに、僕の口が勝手に反論する。例えば、明治維新の頃の教養は、四書五経だったわけだ。ところが今の時代、四書五経を唱えることができます、とか言ってみろ。変わった趣味ですねと言われるのがオチだ。そこまで時代を遡らなくてもいい。例えば僕らが中学校くらいの時は、クイーンズイングリッシュで話す人は教養がある人だと思われたじゃないか。今、クイーンズイングリッシュを使ってみろ、偏屈な奴だと思われるだけだ。時の政治バランスを忠実に反映したのが教養なんだよ。
私がそんな風に言うと、今まで意気軒昂としていた友人は、みるみるしゅんとして「ああ、教養は政治だね。」と言うではないか。僕らの討論はあっさり決着が付いた。だが、議論に勝ったはずの私は、彼以上に落ち込んでしまった。教養が政治って言うのは虚しいよなあ。これが私の気分だったが、口には出さなかった。タイミングよく電車は新宿に着いて私は彼に別れを言って駅に降りた。彼にはいつものように威勢よく反論して欲しかった。
■色即是空が効かない時代に
教養は政治かもしれない。ただ、政治は政治家の所有物ではない。僕らの考えや何気ない行動の、集積やケミストリーが政治になるのだと信じたい。だとすれば教養を作っていくのは僕たちの日常であるはずだ。新しい自由七科は何なのか。なんとか話法とポジショントークが二元論的に世の中を色分けし、日常では忖度とルサンチマンが伝言ゲームとなって拡散している。
閉塞そうに見えて閉塞ではない。僕らの言論の自由は保障されているし、官邸前でデモもできる。だが。閉塞ではない、のが問題なように思う。世の中が閉じ塞がれていることが問題ならば、開け放てば解決するはずだ。どんなに固く強く閉塞していてもそれは梃子の原理で解決できる。だが、問題は二元論なのだ。開/閉も二元論、課題/解決もその発想それ自体が二元論だ。
形而上と形而下が、精神と肉体が、彼岸と此岸が、バーチャルとリアルが、対立している時には話は今より簡単だった。二元論の世界では単純な課題/解決が有効だ。また、心理的には色即是空・空即是色の発想でジャックアウトが可能なはずだ。今やそれらは混ざり合っている。色即是空・空即是色は往復の思想だ。混ざり合い同時に存在するものを往復するには、特別の目と技術がいる。混ざり合い同時に存在するものを、使い慣れた色即是空・空即是色で解こうとするから、見ていない二元論が見えてしまう。それらを再帰的に社会に定着させるから問題がどんどん固着してしまう。すんなり色即是空・空即是色で解けないから、精神を鍛えてもすぐに精神が参ってしまう。僕たちは、目の前の現実からいったん心をそらすとき、色即是空を無意識に使うことに慣れすぎてしまっている。
無理に安直に使うから色と空とが二元論となる。二元論と結びついた空はもはや色である。しかしそれは空即是色が唱える世界観とはほど遠い。
混ざり合い同時に存在するものを往復する目と技術。それが今必要な教養だと思う。それを誰にでもわかるように体系化し、ビジネスや政治や日常の場の実践で鍛えていけるか、それが僕たちの喫緊の課題であり勝負だと思う。