『アナと雪の女王』が示すアメリカの現在と未来
昨日家族で『アナと雪の女王』を見に行ったのでその感想を書いてみようと思います。
アナと雪の女王 - 予告編
以下ネタバレ含みます。
実は先に見に行った友人の話しを聞いて、勝手に抑圧と解放の物語だと思っていました。松たか子の歌はいいけれど、日本語詩は「ありのままの自分になって♪」でレリゴーがLet it be! になっちゃってるよ、なんてことも聞いていたので、映画館に入る前に勝手に主題歌の日本語私訳作ったりして盛り上がっていました。幼稚園の娘には、空気なんて読まずに能力を思い存分発揮するような子供になってほしいから、この映画はぴったりだなーなんて思って、妻と娘といそいそと映画館にでかけて行ったんですね。
でも、そういう映画ではなかった。これは徹頭徹尾自己否定の映画なんじゃないのか?
『アナと雪の女王』は、ディズニーのセルフパロディーのオンパレードです。運命の王子は悪人。魔法は運命の人のキスで解けるのではない。本当の運命の人はにおいが臭い。それに白馬じゃなくてトナカイに乗ってやってくる。トナカイと言えばサンタだが、このサンタはプレゼントをもらう方だ(最後のソリのシーンを言ってます)。主人公は、魔法をかけられた方じゃなく、どちらかと言えば魔法をかけた方。真実の愛は男女の愛じゃなくて姉妹愛。etc.etc.
ここまで定石外しばかり連続させるのは、セルフパロディーの域を超えて自己否定なのではないのか?ひょっとしてディズニーは、未来を創るためにはスクラップアンドビルドが必要だと考えて、これまでの自分たちの歴史を一生懸命スクラップにし始めたのではないだろうか?
しかも、このディズニー映画が否定しているのは自分たちディズニーの歴史だけではないようだ。アメリカ人そのものを否定したがっているような節があります。
この映画の主要人物たちは女も男もみな意志と主体性に欠けています。アナは王国の夏を取り戻すのに最初から他の方法を考えることなく姉の能力のみをあてにする。姉のエルサは王子に監禁されることによって自分の意志ではなく王国に帰り、凍って無機物のようになったアナを抱きしめることによって愛を解放する(アナが生き生きと動いているうちに心の交流に一歩踏み出すことがない)。王子は最初から逆玉狙いの上(受け身!)、アナが死ぬと確信してから突如悪事を実行し始める(棚ぼたから悪事)。クリストフはトナカイに促されないと愛のための行動が取れない!
はた迷惑なまでに自意識過剰で主体的なのがアメリカ人だったのではないでしょうか。ディズニーが『アナと雪の女王』で否定したかったのは、アメリカ人という物語そのものだったのか??? そう思い至ったら、映画館で急に心が冷えてきてしまいまいました。
以前にレディー・ガガのドキュメンタリーを見たときに、ステージを降りているときのガガがめそめそ泣くシーンがあまりに多いのでとまどったことがあります。今のアメリカ人は、男も女もマッチョをやめたがっているのかも。911は、世界貿易センタービルだけでなく、アメリカ人の心もへし折ってしまったということなのでしょうか?もしこのようなディズニーの思いが911以降のアメリカに不偏に広がっているものだとしたら、オバマを大統領に選んだのも、マーチンルーサーキングの夢の実現なんかじゃなくてWASP国家の自己否定の結果なのだと言えてしまう?それは心が寒い!
閑話休題。先に、スクラップアンドビルドと書きました。ではこの映画でビルドにつながる何かは提示されているのでしょうか。
それを考えてみるために、この映画最大のスクラップのシーンを考えてみます。最初に主題歌「ありのままに♪」(レリゴーの歌)が流れるシーンでは、エルサは自己の孤独の選択と能力の解放を同時に達成します。このシーンは、抑圧された自我を解放し、自分の能力を最大限に発揮しても問題は何も解決しないということを象徴しています。
エルサは自分の能力によって妹を傷つけてから引きこもりになったので、エルサが解決したいのは、人を傷つけない自己の能力の発揮の仕方であるはずなのですが、歌にあるように、自分の引きこもりを親からの抑圧の結果と捉えたために、抑圧からの解放を主体的に選択し(トラウマを超克)、雪の女王となるくらいまで自分の潜在能力を最大限に発揮しても、本来の問題解決になっていない上に、他者からは、孤独(精神の自由の結果)は引きこもり(親の抑圧の結果)と区別がついていません。
つまりこのシーンは、自己解放と自己啓発の否定になっています。メイドインアメリカの成功の2大秘策が、問題の本質的解決には何も効果がないとディズニーは子供たちに説いているわけです(綺麗な氷のお城が建つだけなんです)。主題歌のシーンということは、この映画の主題がこの種のアメリカ式個人強化主義をスクラップにすることだと考えてもいいのかもしれません。
さて、エルサは様々な他人の行為の結果にのっかることで(王子に王国に引き戻されたり、アナの献身行為などの結果として)、偶然に愛が問題解決の手段であることを理解し、その応用として王国全土に愛を振り向けることで王国の雪解けを達成し、映画は終わります。
アメリカ式個人強化主義を否定し、領域内へ愛を行き届けることがディズニーにとってのビルドだということなのかもしれません。自己解放と自己啓発の否定はいいと思います(うさんくさいし『オースティンパワーズ』なんかでもネタとしてやってる)。しかし、ついでに個人の主体性を放棄して、孤立主義よろしく自国内への愛を解決だと謳うというのはどうなんでしょう。それがこれからのありのままの姿の提示なのだとしたら、あまりに弱く危うくはないでしょうか?子供向けの映画だからこそ、作り手の未来に対する意識無意識の思いが結晶化してしまうところがあると思います。それがアメリカのみならず日本でもこれほど大絶賛され大ヒットするとは…。いや、単純に松たか子の歌の力にみんなが痺れたってことですよね。ディズニーのアニメの作画力はやっぱり素晴らしいし。
娘はといえば「エルサ好き。だって魔法使えるんだもん。」と無邪気です。親は余計な心配をせず、子供を育て続けるしかありませんね。ともあれ、「ディズニーはマーベルを買収したんだし、次回作ではエルサはX-men入りだね!」とか毒づいたコメントにならなかったのは、娘の力によって私も少しだけディズニーの魔法にかかってしまったからかもしれません。
英語版を見たらまた違う感想になるのかな?
(cinemascape への投稿から一部加筆修正)
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『アナと雪の女王』主題歌"Let It Go"を日本語に訳してみた
『アナと雪の女王』の評判が凄いです。中森明夫氏のコラム(「中央公論」掲載拒否! 中森明夫の『アナと雪の女王』独自解釈 – REAL-JAPAN.ORG)を読んだら私も見に行きたくなってしまいました。
Disney's Frozen "Let It Go" Sequence Performed by Idina Menzel
山中千尋(トリオ)のビートルズ
世間的には超が付くメジャーだけれども、どうにも自分にはピンと来ない音楽がある。クラシックではモーツァルトがそうだし、ポピュラーではビートルズがそうだ。
自分のことをへそ曲がりだとは思いたくないので、なんとかそれらとの和解を探索してきた。そうして出会ったのがグールドの弾くモーツァルトで、今日、幸いなことに山中千尋の弾くビートルズに出会うことができた。
山中千尋はNYを拠点とするバークリー音楽院を首席で卒業したジャズピアニストだそうだ。私はジャズは半可通なので、つい最近まで山中千尋の存在を知らなかった。ふだんコルトレーンやオスカーピーターソンなどのかつての巨匠ばかり聴いている私は、王や長島は知っていてもマー君を知らなかったようなものかもしれない。ごめんなさい。
さて、山中氏はいろいろなカバーアルバムを出している。その中の一枚が『Because』というビートルズのカバーである。これが凄い。
例えば、Yesterday。
ナイーブなイギリス人がアフリカの旧植民地に連れてこられて説教くらってるみたいなアレンジだ。クールなイントロからアフリカンなドラムに引き継がれ、その中に借りてきた猫のようなピアノの音でYesterdayのメロディが奏でられる。これではまるでビートルズはさらし者ではないか。
でもかっこいいのだ。イギリスにとってのイエスタディは大英帝国時代だってことを思い出せ、か。そしてジャズはアフリカンをルーツとする音楽だ。なんという諧謔。なんという皮肉。市中引き回しのように演奏されるビートルズを、誰が想像できようか。
ビートルズのジャズアレンジは、同じヨーロッパ人のウォルター・ラング・トリオも出しているが、こっちのYesterdayはビートルズ愛に溢れすぎてイージーリスニングのようだ。山中を聴いた後ではダサさが際立ってしまう。
対象をリスペクトしながら時には小馬鹿にしているのかと思えるほどに洒脱に翻弄する、そんな愛情表現は、モンティ・パイソンを産んだイギリス人相手だったら許されるはずである。この悪戯心に溢れた知的な所業は、どこかで聴いたことがあるぞ、と思っていたら山下洋輔を思い出した。ああ、この人はまごうかたなき日本のジャズの系譜の人なんだと思ったら余計に嬉しくなってきた。山中千尋、遅ればせながらこれから注目していきたい。
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『偉大なる、しゅららぼん』と京都と福井
『風立ちぬ』は挑発する
泣いた。なので、自分は感動したのだろうと思うが、何に感動したのか非常に感想に書きづらい。愛だの時代だのの陳腐な切り口の先にあるものを「風」以上の言葉で書き連ねることが難しい。「泣いたから感動」では馬鹿だよな、俺。
作者の物を作る人間としての自分の業への「開き直り」とおぼしきこの映画は、しかしながらそうであるはずなのに、スクリーンには「達観」が溢れているように見える。
しかもそれは昇華ゆえではなく、「達観」を表現の技術で表わした作品なのだろう。
そしてそれは、自己肯定でも運命への諦念でもなく、風を感じ風を制し風に委ね風を愛することを己の人生とした宮崎駿だから可能だったということなのだろう。
10年でいいから生ききってみろ。10年は長い/短いではない、個人の感傷を超えた時代と向き合う10年をお前は生きられるのか。そう言われたような気がした。俺は仕事を通して何か多少なりとも刹那でなく作り出すことができるのか。やはり宮崎映画は甘くない。
『ローマでアモーレ』に笑った笑ったでも泣けたよ
死を意識したウディアレンが葬儀屋と歌い上げる凡人の幸せと愛と人生。
以下ネタバレあり。
キリストじゃない凡人は復活しないんだよね。前衛的なオペラの演出に人生を懸けてきたウディアレン扮するジェリーにとって引退は死と同じ。妻に時代を先取りしすぎてるのよと慰められているジェリーは評価された作品のないままに引退してとても心残り。
そんな彼は、シャワーを浴びてないと美声が出せない葬儀屋と出会い、復活に挑む。葬儀屋の歌は大絶賛。でも葬儀屋は実力が認められたことに満足し歌手の道は選ばずもとの葬儀屋に戻る。一方、シャワーの演出は酷評されるもイタリア語がわからないジェリーはそのことを知らず、妻はあなたは時代を先取りしすぎてるのよと変わらぬ言葉をかける。泣けるなあ。
全編超くだらないギャグの連続で笑いが絶えないんだけど、世間の評価に満足できない男(ジェリー)、夢の実現に踏み出せないでいる男(葬儀屋)、一度浴びた脚光を再びと願う男(パパラッチされた人)、金儲けに魂を売って半分くらい幽霊になっちゃってる建築家、などなど戯画化されたありがちな男たちと、それを丸ごと受け入れている女たちの人物設定が見事。
ベタな演出に徹したギャグの数々、それぞれ個別のエピソードのつなぎの妙など、ラフスケッチのようで実は大変に緻密に作られている。まるでピカソの泣く女のようだ。
ハリウッド的な大作に背を向けているウディアレンが喜寿を迎え、己の死の予感に、「足れりの思想」を執拗にギャグで練り込んで作品にした。沁みたなあ。
シャワーはリフレッシュできる手軽な再生のツールだけどいつまでも浴び続けられるわけじゃない。大いなる復活と無縁な我らは、小刻みな再生を繰り返し生きていくんだね。そんな人生は、愛につつまれ笑いに溢れていなければ、単なる濡れ鼠の人生になってしまうもの。