日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

『蜜のあわれ』と老いと性

 はるか昔、中高生時分に室生犀星の小説が好きだったこともあり、実写化に興味を持ちつつも、文学作品の映画化なんてどうせ失敗するんだろうなと冷ややかな気持ちがあって、ほんとは石井岳龍監督作ということでちょっとだけ怖いものみたさはあったけど、本作は未見でした。名「バイプレーヤー」大杉漣さんの訃報から約一年、その主演作品ということもあり、Amazonプライムで見てみることにしました。


映画『蜜のあわれ』予告編

 

 最初、大杉漣室生犀星にしてはいい男過ぎて(私の中では室生犀星のルックスは、平田オリザ。<失礼!)、二階堂ふみも金魚の妖精(?)にしては文学的というより健康的ゴム毬的すぎるなあと思って、やっぱり冷ややか視線で見ていたのですが(大杉漣さんごめんなさい!)、途中、本作が小説『蜜のあわれ』の実写化ではなく、小説『蜜のあわれ』のメイキングオブであるという大胆な設定になっていることに気がついて、その手があったかと膝を打った瞬間に、二階堂ふみが金魚でならなければいけないのだと思い始めた。

 

 死を意識している室生犀星はこの世の女のように向こうの世界の女を見ている。だから、赤子はゴム毬のようで、真木よう子演じる幽霊の田村のおばさまは、体温があり足があって走るし健康そうな顔色をしているのだ。むしろ、現実の女(韓英恵)の方が儚げだ。高良健吾の芥川がいい男過ぎるのも同じ理由だろう。室生にとって現実の方が希薄なのだ。そして自分は現実より向こうの世界寄りに生きている自覚を持っている。それをまるごと捉まえて書いた小説が『蜜のあわれ』で、本作はその小説がどのように書かれたかを描くSFファンタジー藤子不二雄なら「ファンタ爺」と書きそう<余計な一言)だったのだ。

 

 現実という現実でしかないこの世界に、絵空事を形にしていく作業が小説だ。それなのに、作家が現実に絵空事を見てしまっては、小説を書く動機が無くなってしまうではないか? それは、小説家の死であろう。冒頭から死んでいるようなものである小説家が小説を書く理由は何なのか。小説家にとって小説は性的行為のようなもの? 苦悩と快楽と走り出したら止まらない性行為の果てに、魂の宿った小説が生み出される? 性衝動に老作家は生き続けるよすがを見ている?

 

 大杉漣は向こうの世界で色鮮やかに健康的に生きているといいな。とてもよい作品でした。合掌。

 

蜜のあわれ

蜜のあわれ

 

 

蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)

蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)