日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

『イングロリアス・バスターズ』に見るタランティーノ作品のAI性

これまでタランティーノ作品は趣味ではなかった。『キル・ビル』とか『デス・プルーフ』とか。過剰なんだけど寸止め感がある、やり過ぎてるはずなのに、ちっともやってくれてない感じがして、見終わったあとにフラストレーションが残ってばかりいた。

だから最近の作品は観ていなかった。だが、『イングロリアス・バスターズ』を観て、タランティーノ作品の見方が変わった。

 


Inglourious Basterds - 予告編

 

 『イングロリアス・バスターズ』は、ナチス占領下のフランスを舞台に、ユダヤ・ハンターの異名をとるランダ大佐(クリストフ・ヴァルツの演技がめちゃめちゃ素晴らしい!)に、家族を皆殺しにされ一人生き延びた少女ショシャナが成長して行う復讐譚です。これに、ブラピ率いる偏執狂的な連合国のナチス狩り集団イングロリアス・バスターズ(名誉なき野郎ども)がからむというお話しです。

 

音楽も美術もプロットも大変に素晴らしく、タランティーノらしく古今東西の過去の映画作品にオマージュを捧げてマニア心をくすぐりながらもテンポよくいちげんさんをも楽しませ、これまたタランティーノらしいスタイリッシュでエグすぎる残虐シーンがポーンと放り込まれているそんな作品です。ハリウッドらしく綺麗で上手い女優さんをさらに美しく撮るサービス精神も健在です。

 

ただ、僕は、作品に監督の狂気が滲み出てしまうような、そんな映画監督が好きなんです。エミール・クストリッツァとか、ティム・バートンとかウッディ・アレンとか『デストロイ・ビシャス』の島田角栄とか。はい、狂気の種類は何でもいいんです。

 

ところが、タランティーノの作品には、この種の狂気は感じない。いくら作品に狂気を描いていても、それはシーンとしての狂気にとどまり、作品から狂気が滲み出ることはない。だから、才能とセンスに溢れるタランティーノに、唯一足りないのは狂気だ、こう思っていたのです。

 

タランティーノの完璧を目指すこだわりぶりは、狂気と言っていいのかもしれないけど、それは人間的な狂気じゃない。なぜなら、この先に進化した強いAI(以下、AIと略す)でも同じことが出来そうだもの。

 

タランティーノは、それを自覚しているのか、狂気を凶器で繕ったり、侠気にすり寄ったりして作品にしている。でも結局、代用は代用なんだよ。

 

だからタランティーノの作品は、本作に限らずいつも超絶よくできた美味しそうなロウ細工の料理のサンプルのようなものになる。サンプルのコンテストだったら最優秀作品賞は間違いない。

 

でも、なぜタランティーノは、美味しそうなロウ細工の料理のサンプルのような作品ばかり作るのか?

 これは、ひょっとして狂気の画竜点睛な欠落なのではなく、狂気の欠損こそがタランティーノの作家性なのではないのか?

 

あまりに完璧で美しい 『イングロリアス・バスターズ』の蝋サンプルぶりに、タランティーノは、AIのような矜恃で映画を作っているのかもしれないと思ってきた。作品のそこここにちりばめられた過去作へのオマージュも、ビッグデータにIMDb(映画データベース)がぶち込まれたかのようだ。

 

映画史上の過去の作品をビッグデータで集積し、史実への配慮だとか、残虐描写への躊躇だとか、内面の発露だとかそんなものはAIのあっしにゃあ関わりの無いことでござんす、なんてね。

 

私が、狂気が滲み出てしまうような映画監督が好きなのは、そこにたまらなく人間臭さを感じるからだ。と書いて、私は狂気の先に、日常を超えた真実を感じていることに気がついた。

 

私は、狂気の先に神を見ていたのだ。人間の狂気は、神の存在証明なんだ。

 

とすれば、私が狂気を感じないタランティーノ作品を不足に思ったのは、そこに映画の神が宿っていないと感じたからだったのか。

 

狂気を感じないタランティーノにAIの影を見て気がついた。AIとは、神の不在の具現なのだ。

タランティーノは、神の不在をエンタメにしてデジタルに焼き付けてるのだ。そしてそれを彼の作家性としているのだ。

 

本作『イングロリアス・バスターズ』では、フィルムが殺される。これは、神殺しであり、神の死を象徴する。

 

周知のとおり、我々は近代という神の死以降の時代を生きている。にもかかわらず映画の神は生きていた。一神教では神は唯一神でなければならぬ。神の死に忠実であれば、映画に神が宿ることはない。とすれば、映画の神は、あってはならぬ存在だ。恐らくタランティーノは無意識に、人間の狂気の存在しない世界を映画に撮ってきた。タランティーノの描く狂気は狂気の蝋細工だ。美しい残虐の絵以上ではない。そして本作で、意識的に映画の神を殺した。フィルムの死に神の死を象徴させたのだ。

 

クストリッツァティム・バートンウッディ・アレンの滲み出る狂気は、彼らが神と向き合うように真摯に映画を撮ってきた証だ。そして、タランティーノの狂気の排除もまた、死んだがゆえに我々から不可視となった神へのこの上ない愛情のゆえだったのだ。私は、そう確信している。