日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第十九回 不十分な説明(神世七代論④)

 別天つ神(ことあまつかみ)の世界は、神とヒトが共に暮らす「国」の世界の雛形を高天原に自らの世界の鏡像として創造します。

 この神世七代の世界は、国之常立神(くにのとこたちの神)が開き、次に、万物を循環する水と雷のエネルギーを含み絶えず動き様々な様態を取りながら地表上を遍く広がる雲を象徴する豊雲野神(とよくものの神)が誕生します。

 そして、五代にわたって別天つ神(ことあまつかみ)が考える「国」のすがたの内実となる神々が誕生します。

 

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■(再掲)三説比較「神世七代

 

神世七代の条件

  『古事記』冒頭の全体の文脈から、神世七代の後五代の神々は、「国」のすがたの内実となる神々です。それらの神々は独神(ひとりがみ)ではないのですから、比較することにより意味があきらかになる神々です。

 これまで説A〜Cと後五代の神々を説明する学会で優劣がついていない3つの有力な説を見てきましたが、<「国」のすがたの内実となる神々>、<比較することにより意味があきらかになる神々>の二つの条件について、もっとも好適な説が、神世七代の説としてもっとも有効だと言えそうです。

 

 まず、説Aの、③土地→④宅地→⑤家屋→⑥出会い→⑦性交に至る男女の象徴というのは、「国」の内実は「家」であるに過ぎないということになります。なかなかに賛同しかねる内実ではありますが、思想としてはありだと思います。

 比較することにより意味があきらかになる神々かという点では、B説やC説の支持者が指摘するように、③〜⑤は特に一対である必要がないので、条件を満たしてはいません。

 したがって、説Aは棄却しなくてはなりません。

 

 次に説Bですが、③一対の盛り土→④一対の杙→⑤陰部のある男女神像→⑥表情(「満足」「畏怖」)のある男女神像→⑦「誘う」男女神像というのでは、「国」の内実をあらわすことにはなりません。

 また、比較することにより意味があきらかになる神々かという点では、一対の神々であることが、比較ではなく双神であることに意味があるのみですから、これも条件を満たしていません。

 したがって、説Bも棄却しなくてはなりません。

 

 最後に説Cですが、③神の身体の原資→④あらわれ出ようとする最初のかたち→⑤男女の陰部→⑥互いを意識しあうペア→⑦誘い合う男女というのは、「国」の内実は男女の神々としての顕現への過程であるということになります。神の顕現過程が国の内実であるということを一つの思想と捉えれば、条件を満たしていると言えるでしょう。

 比較することにより意味があきらかになる神々かという点で説Cを見てみると、③の宇比地迩神(うひぢにの神)と須比智迩神(すひちにの神)との関係は、泥と砂とで粒子の大小(泥<砂)、④の角杙神(つのぐひの神)と活杙神(いくぐひの神)の関係は、尖った杙と活きた杙とで静止→活動という関係、⑤の意冨斗能地神(おほとのぢの神)と大斗乃弁神(おほとのべの神)は、男性器女性器のペア、⑥の淤母陀琉神(おもだるの神)と阿夜訶志古泥神(あやかしこねの神)は、神の体つきが整ったことに対する称賛とそれへの返答の関係、⑦の伊耶那岐神(いざなぎの神)と伊耶那美神(いざなみの神)は誘い合う男女(一人では誘うことができません)で、③〜⑦の神々とも対となっている二神の比較において意味が立ち現れてくる関係になっていますので、条件を満たしています。

 以上からは、三説の中で唯一、神世七代の神々の説明として条件を満たしているのが説Cということになります。

 

■説Cの瑕疵

 しかしながら、説Cには神世七代の説明として、根本的な問題点があります。男女をあわせて一代とする神世七代のルールから外れてしまっているのです。

  ③の宇比地迩神(うひぢにの神)と須比智迩神(すひちにの神)ですが、泥と砂の関係を粒子の大小(泥<砂)関係として、だんだんと神が姿を見せていく様の象徴に捉えています。つまり、粒子の小→大を進化の関係として捉えています。男性神の進化版が女性神というのは魅力的な関係ですが、進化には時間の経過が不可欠ですから、男女をあわせて一代とはなりません。

 次の④も同様です。角杙神(つのぐひの神)と活杙神(いくぐひの神)をそれぞれ、尖った杙と活きた杙の象徴として解釈していますが、これも、静止→活動という男性神の進化版が女性神という関係にあります。進化の前後の神々が同時に一代を形成することは矛盾と言えます。

  さらに、次の⑤の意冨斗能地神(おほとのぢの神)と大斗乃弁神(おほとのべの神)は、男性器女性器のペアであり、③④と続いた男性神の進化版が女性神という関係が途切れます。⑤では③④のような時間の矛盾はありませんが、文脈的な一貫性がありません。

 次の⑥の淤母陀琉神(おもだるの神)と阿夜訶志古泥神(あやかしこねの神)は、神の体つきが整ったことに対する称賛とそれへの返答の関係ですから、男性神の進化版が女性神という関係の変形と言えるでしょう。時間の矛盾の復活です。また、称賛と返答は一瞬ですから、③④と同じく一代と数えることにも無理があります。

 その次の⑦の伊耶那岐神(いざなぎの神)と伊耶那美神(いざなみの神)は、神名上は同値になり、時間の矛盾はなくなります。説Cは、男性神と女性神との関係に、進化と同値が錯綜しているのです。

 

 このように説Cは、条件を満たしているように見えても、各代を個別に見ていくと、論理的には神世七代の説明として適切ではないと言えるでしょう。

 また、七代を俯瞰して見ても、土砂に象徴できるような小さな粒子から杙に象徴できるような形状に進化し、それが性器を伴って完成し誘い合う男女神となるというストーリーは進化論のようですが、進化の過程をスナップショットのように刻んで代替わりしていることの必然性が疑問です。

 『古事記』には、進化の途中の神はこの他には登場しません。あえて進化の途中の神を挙げるとなると、伊耶那岐と伊耶那美が生んだヒルコと淡嶋がありますが、これらは伊耶那岐と伊耶那美の子の数に数えられません。つまり完全体でない存在は神々のうちに入らないというのが、『古事記』のルールになっているのです。この点でも説Cは『古事記』のルールから逸脱しています。

 

 したがって説Cも棄却する必要があります。

 

 これで、すべての説が棄却されてしまいました。

(つづく)