日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第十八回 文脈の中の神世七代(神世七代論③)

 神世七代の神々がどのような神々であるかについての有力3説には一長一短があり、それぞれの説の支持者による他説への反証もそれぞれに一定の説得性を持ちます。こうした中で、神世七代の妥当性のある解釈に至るためには、神世七代だけにフォーカスするのではなく、天地初発から始まる『古事記』冒頭全体の文脈から神世七代を考察することが必要となります。
 神世七代は『古事記』冒頭部分のクライマックスです。最初のひとまとまりの物語の集大成が神世七代なのであり、そこにはそれまでの神々の物語の帰結が盛り込まれているはずなのです。

※本稿は、稿者独自の解釈を含んでいます。鵜呑みにせず、批判的にお読みください。今回は、ほとんど独自解釈部分ですが、根拠を示し、一方的な独自解釈の主張はしておりませんので、安心してお読みいただけます。また、稿者の解釈を採用いただける場合は、その旨ご明示いただけると幸いです。

 

■『古事記』冒頭を振り返る

 これまでの考察を踏まえて、『古事記』冒頭の物語をざっと振り返ると、次のようになります。

 まず、天と地があり、それぞれが自らの意思でそれぞれ天と地としての働きをはじめ、天の高天原という場所に最初の神である天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が誕生しました。それにより、高天原は天の中心として位置づけられ、そこに次々に神々が誕生していきます。

 万物の創造力の源の神である高御産巣日神(たかみむすひの神)が誕生し、次に、生命の創造力の源の神である神産巣日神(かみむすひの神)が誕生しました。

 次に、神々は自らを中心として認識する存在であるヒトの誕生の準備を始めます。水に覆われた地に、神とヒトが共に暮らす「国」を創造しようと、地表に「国」にふさわしい場所を探し求めはじめた時、ヒトの雛形たる宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじの神)が誕生しました。

 このように、高天原に4つの神々が揃ったところで、いったんこの神々の世界を閉じる区切りとなる神が誕生します。天之常立神(あめのとこたちの神)です。

 ここまでの5柱の神々を、別天つ神(ことあまつかみ)といいます。

 別天つ神(ことあまつかみ)の世界は、神とヒトが共に暮らす「国」の世界の雛形を高天原に自らの世界の鏡像として創造します。高天原のこの新しい世界を開く区切りとなる神として、国之常立神(くにのとこたちの神)が誕生します。

 次に、万物を循環する水と雷のエネルギーを含み絶えず動き様々な様態を取りながら地表上を遍く広がる雲を象徴する豊雲野神(とよくものの神)が誕生します。

 

 ここまでの原文は次のとおりです(句読点と改行は稿者)。

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神
高御産巣日神。次神産巣日神
此三柱神者、並獨神成坐而、隠身也。
次國稚如浮脂而、久羅下那州多陀用弊流之時、如葦牙因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
此二柱神亦、並獨神成坐而、隠身也。
上件五柱神者、別天神

次成神名国之常立神、次豊雲野神

 

 これを受けて、③〜⑦の神々の物語が展開されるのですが、その直前の一文が、

此二柱神亦獨神成坐而隠身也

 です。神世七代の後ろ五代の神々を考察するためには、最初の二代を総括するこの一文を理解する必要があります。

 

この文章を、意味上3つの部分に分けて考えることにします。

「此二柱神亦」・「獨神成坐而」・「隠身也」の3つです。

 

 まず、「此二柱神亦」ですが、書き下せば、「此(こ)の二柱の神は亦(また)」となって、続く「獨神成坐而・隠身也」の主語が、国之常立神(くにのとこたちの神)と豊雲野神(とよくものの神)の二柱であることを示します。「亦(また)」というのは、「獨神成坐而、隠身也」という表現が、以前に天之御中主神(あめのみなかぬしの神)、高御産巣日神(たかみむすひの神)、神産巣日神(かみむすひの神)の三柱を対象にしたものと、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじの神)と天之常立神(あめのとこたちの神)の二柱を対象にしたものとの二回登場していることを受けての表現です。

 

 ここまでは問題ありません。

 

 次に、「獨神成坐而」ですが、「獨神(独神)」については、既に「独神(ひとりがみ)とは、他の神との関係性で語られるべきではない神であって、性別概念のない神」であることを明らかにしています*1

 「獨神成坐而」は、本居宣長以来、「独神(ひとりがみ)と成りまして」と書き下されることが通説となっています。「而」は前後の語句をつなぐ接続詞で、「しこうして(順接)」にも「しかれども(逆説)」にもなりますが、強い意味はなく普通は訳出しません。

 「坐」は、「成」に対する尊敬をあらわす補助動詞「坐(ま)す」であると解釈されていて、それ以外の解釈は見たことがありません。例えば、『古事記注解2』(神野志隆光・山口佳紀、1993年などがそうですし、「坐」の敬語補助動詞化についての学位論文も存在します(『上代日本語の書記資料にみる敬語の文法化』魏 峰皓、2011年)。

 魏によれば、「移動動詞が「坐」と連接し,そのあとの場所名詞が省略された構文環境において,移動動詞と「坐」の間に再分析が起こり,「坐」は空間の存在から結果の存続相という時間的概念に変わった」(前掲論文)ということです。つまり、「成」と連接し、「坐」のあとに場所名詞のない構文環境下にある「獨神成坐而」の「坐」は、尊敬をあらわす補助動詞である条件を満たしているという解説です。

 

 しかしながら、『古事記』には、同構文環境下にあって、「坐」が本動詞である例があります。例えば、中つ巻の安寧天皇の段の「次師木津日子命之子、二王坐。」(次に、しきつひこのみことの子、二(ふたはしら)の王(みこ)坐(いま)す。)と、開化天皇の段の「此二王之女、五柱坐也。」(この二(ふたはしら)の王(みこ)の女(むすめ)、五柱坐(いま)しき。)は、いずれも「坐」のあとに場所名詞のない構文環境下にありますがどちらも「坐」は本動詞です。

 したがって、「獨神成坐而」の「坐」を補助動詞として読まなければならない文法的な根拠はありません。むしろ中国語では、動詞を重ねる表現は一般的ですから、「獨神成坐而」を「独神(ひとりがみ)と成り、坐(い)まして、」と読むことも可能なのです。

 むしろその方が、「隠身也」との整合性が取れてきます。

 「坐」を補助動詞として読む場合、「隠身也」に対置するのは「独神成」になります。一方、「坐」を本動詞として読む場合、「隠身也」は、「坐(い)ます」を受けての「隠身也」となります。

 

■隠身

 「隠身也」は、「身を隠しき」と書き下します。「かくりみなり」と「隠身」を名詞として読む読み方は文法的に否定されています*2

 この「身を隠しき」が、何を意味するかについては、「抽象神である」(『古事記注釈』西郷信綱)、「ひそめられて、その働きによって神々の世界の存立と展開を支える」(『古事記注解2』神野志隆光)と、これも諸説あります。

 巷の古事記解説本の中には、「姿を消した」「お亡くなりになった」とするものもありますが、高御産巣日神(たかみむすひの神)が、天照大御神の登場後も活躍することから、「消えた」や「死んだ」という解釈はありえません。

 「抽象神である」とすると、宇比地迩神(うひぢにの神)・須比智迩神(すひちにの神)以降の神々は具体神であることになり、これらを一対の盛り土の神格化とした説Bを支持することになりそうですが、例えば、抽象神に数えられる高御産巣日神(たかみむすひの神)と同じ産巣日神(むすひの神)である和久産巣日神(わくむすひの神)が宇比地迩神(うひぢにの神)・須比智迩神(すひちにの神)以降に誕生することの説明がつきません。和久産巣日神(わくむすひの神)は独神(ひとりがみ)とはされていないからです。

 ですが、「ひそめられて、その働きによって神々の世界の存立と展開を支える」のだとすると、豊雲野神(とよくものの神)までひそめられていた神々が、宇比地迩神(うひぢにの神)・須比智迩神(すひちにの神)以降、あらわな神々になることの合理的な説明が必要です。

 神野志は、それを「対をなすがゆえに「隠身」ではなく、「身」において働く」(『古事記とはなにか』講談社学術文庫)のだとし、「対をなす」に性的な含意をおいてイザナギイザナミへと続くことの根拠にもしていますが、それならば、性を問わない「独神(ひとりがみ)」の記述だけで十分であり、極限まで無駄のない記述がなされている『古事記』の冒頭にはふさわしくない気がします。

 

 これが、「坐」を本動詞として読む場合、「隠身也」は、「坐(い)ます」を受けることになりますから、 坐(い)らっしゃるのに「身を隠し」ているのだということになります。

 宇比地迩神(うひぢにの神)・須比智迩神(すひちにの神)以降の神々は、坐(い)らっしゃるので「身」はそのままの神ということです。

 ここで思い出されるのが、説Bの「依り代」という解釈です。神は依り代に拠って顕現する存在であるとすれば、「身を隠し」た神とは、物質としての依り代に拠らない神だと解釈することができます。後段、高御産巣日神(たかみむすひの神)が活躍する際には、必ず天照大御神とセットになっていることは、「身を隠し」た神は、物質ではなく神を依り代にする神なのだと理解することができるのではないでしょうか*3

 神を依り代にする神は、神を依り代にしなくては存在できない神とは異なります。神を依り代にしなくて存在している状態が、坐(い)らっしゃるのに「身を隠し」ている状態なのだと思われます。

 別天つ神の世界と神世七代の世界とは対応関係にあり、その展開は抽象から具体への展開でした*4

 常立神(とこたちの神)をはさんで、造化の三神は豊雲野神(とよくものの神)に、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじの神)は宇比地迩神(うひぢにの神)・須比智迩神(すひちにの神)以降の五代の神々に対応しますが、神を依り代にする神々から物質を依り代にする神々への移行は、ヒトが認識できる神への以降と考えれば、抽象から具体への展開の中に位置づけられ、妥当性を持つものと考えられます。

 

 以上から、「此二柱神亦獨神成坐而隠身也」は、「この二柱の神はまた独神となり、坐(い)まして、身を隠しき」と書き下し、その意味は、「国之常立神(くにのとこたちの神)と豊雲野神(とよくものの神)の二柱はまた、他の神との関係性で語られるべきではない神であって、性別概念のない神として誕生し、いらっしゃいますが、ヒトが認識できるお姿を取りませんでした。」となることが明らかとなりました。

 

 ここまでの議論を踏まえれば、神世七代の有力3説の妥当性があきらかになるはずです。

(つづく)

 

古事記注解〈2 上巻 その1〉

古事記注解〈2 上巻 その1〉