日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第十七回 三すくみの神々(神世七代論②)

 神世七代の有力3説は、議論において三つ巴の争いの様相を呈していて、どれが妥当なのかについて、それぞれの説を支持する学者たちの議論に決着がついていません。

 説Aは、③土地→④宅地→⑤家屋→⑥出会い→⑦性交に至る男女の象徴と推移するもので、神世七代に大地の形成から家に住まう男神女神の誕生へと至る歴史を見る解釈です。
 説Bは、③一対の盛り土→④一対の杙→⑤陰部のある男女神像→⑥表情(「満足」「畏怖」)のある男女神像→⑦「誘う」男女神像と推移するもので、防塞神が生産神へと至る歴史を見る解釈です。
 説Cは、③神の身体の原資→④あらわれ出ようとする最初のかたち→⑤男女の陰部→⑥互いを意識しあうペア→⑦誘い合う男女と推移するもので、姿形の無かった神が、だんだんと身体を整えていく過程を見る解釈です。

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■(再掲)三説比較「神世七代

 

■説A支持者の主張

 説Aの支持者の代表として、森明彦の主張を取り上げます*1

 森は、まず、説Cについて、「国生み段にはイザナキとイザナミの男女としての成り立ちを「成りなりて成り余れるところ」、「成りなりて成りあわざるところ」と、イザナキとイザナミの男女神としての生成が語られている。(中略)天地の初発や独神の生成の経過について詳しい叙述を行わなかった『古事記』が、いかにも『古事記』らしいこの男女の成り立ちの表現以外に、なぜ男女二神についてのみ生成過程を詳しく記す必要があるのか疑問」(『神世七代について』「部落解放研究 No.165」*22005年)として棄却します。

 その上で、説Bに対して説Cの提唱者である金井清一の批判を引用しています。西宮説とあるのが西宮一民が支持している説Bです。「金井は、西宮説の棒杭→門口→男女の陰が道祖神の形状・場所・面貌という多面的な側面の説明となり、村落の発展過程とされていないため、神としての発展性のない捉えかたであると評している。たしかに西宮説は男女一対の防塞神(道祖神)の説明と思わせるところがあり、金井の評言は核心部分を衝いているように思われる。」(前掲論文)。

 西宮の主張は、防塞神の発展(③盛り土→④杙→⑤陰部のある男女神像)が村落の発展過程と同義として語られていますが、それには無理があるというのが森の主張です。西宮の主張は説Bを説Aを踏まえて語るものですが、説Bの本質を防塞神の発展とすれば、説Aを踏まえた部分を削ぎ落とすことが可能になり、森の批判は回避できます。

 しかしながら、森の主張は、防塞神の方を削ぎ落として、村落の発展過程を通じて誘い合う男女に至るというところに落ち着くので、結局は説Aを主張していることになっています。

 つまり、森の反証は、説Cにのみなされています。

 

■説B支持者の主張

 説Bの支持者の代表としては、西宮一民の主張を取り上げます。西宮は、そもそも有力な仮説として説Cを挙げていません*3。そのため、批判はもっぱら説Aに向けられています。

 西村の説Aに対する批判の中心は、③〜⑦が「独神」でないことをうまく説明できていない点にあります。「宣長以来の、単なる神名の解釈だけでは、何が故の、「男女一対の並んでゐる神」なのかがわからない」として、例えば③に対しては、「A説の「ドロ」だけでは何のことだか分からないが、B説のやうな、防塞神の依代としての一対の「盛り土」と解すると、民俗に照らして納得ゆく所となる。」との主張です。

 また、⑥⑦について、説Aと説Bは似ているけれども、説Aは、③土地→④宅地→⑤家屋ときたのが⑥で急に男女になるので、説に一貫性がないとして、③から対となっている説Bの優位性を説いています。

 

■説C支持者の主張

 説Cの支持者としては、神野志隆光の主張を取り上げます。神野志の主張の中心は、「隠身」でないことの説明と、①から⑦の神世七代の神々がいずれも高天原に成れる神々であることとの整合性にあります。

 神野志は、「隠身」を「独神」への回答として解釈します。「アメノミナカヌシからトヨクモノまで、「独り神」であって「身を隠」したのであるが、それは、ウヒヂニ・スヒチニ以下がそのようにはいわれないことと対応している。ウヒヂニ・スヒチニ以下はペアとなる。それが「独り神」とはされないということであり、そのことと「身を隠」したとはされないことが結びついているのである。男女として対をなす神々のほうからいえば、その対をなすがゆえに「隠身」ではなく、「身」において働くということになる。」(『古事記とはなにか』講談社学術文庫、2013年)

 つまり、神野志は、ペアの神というのは、数の上で対を成す神というのではなく、「身」において意味が発現する神なのだと解釈しているのです。

 この解釈を前提に、「ウヒヂニやスヒチニが泥を意味するヒヂ(ヒチ)を名に負うことから、「土砂の発生」として見る倉野憲司『古事記全註釈』などの説があったが、それは、高天原の神々として見ないという点でも、「身」にかかわる文脈を見ないという点でも、誤っている。」(前掲書、p.87)と、説Aに反証しています。

 説Bについては、直接取り上げていませんが、「高天原の神々として見ないという点でも、「身」にかかわる文脈を見ないという点でも、誤っている。」との主張はそのままあてはまります。

 神野志と同じく説Cの支持者である岸根敏幸*4は、『『古事記』神話と『日本書紀』神話の比較研究ー特に別天つ神、神世七代、および、国生みをめぐってー』(福岡大学人文論叢第四十四巻第四号)で、説Bに対し、「大地すらまだ存在していないのに、村落や家屋への侵入を防ぐ防塞守護神が現れたなどという理解は、そのような文脈(稿者註:大地すらまだ存在していないこと)に照らすならば、容認することが難しいであろう。」と直接反証しています。

 

■結局どの説が正しいのか

 このように各説の支持者の言説を見てくると、どの説にも一長一短あり、どの反証も説得力があるように思います。説Aの支持者はA>C*5を言い、説Bの支持者はB>Aを言い、説Cの支持者はC>A、C>Bを説いているのですから、三すくみ状態です。当然、三者の主張は共存できませんから、どれかが致命的に間違っているか、あるいはどれもが致命的に間違っているかのどちらかであるはずです。

 これら三説は、神世七代の文脈理解の違いから異なった結論を導き出しているので、それぞれの主張を点検するためには、それぞれの文脈理解を点検することからはじめなければなりません。その上で、それぞれの主張の根拠の妥当性を確認していく作業が必要です。

 それには、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)から始まる『古事記』の物語の中に神世七代の物語を読んでいく姿勢が必要です。近視眼的に神世七代に当ててしまったフォーカスを、ふたたび『古事記』全体を俯瞰する視野に戻すことにより、自ずと三説それぞれの妥当性が見えてくるものと思います。

(つづく)

 

古事記の研究

古事記の研究

 

 

*1:森は『神世七代について』(「部落解放研究 No.165」 2005年)で、説Bの提唱者である西宮一民の論を、説Aの提唱者の倉野憲司の論を参酌することで補強するとして、結果、説Aの主張と同義の説を主張するに至っているため説Aの支持者とした

*2:ずいぶんと渋い媒体に発表されています 

*3:古事記の研究』おうふう、1993年

*4:福岡大学研究者情報 ( 人文学部  文化学科  教授  岸根 敏幸 )

*5:「>」は開いている方の説の閉じている方の説への優位を示す