日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第十六回 一次元から二次元へ(豊雲野神論)

神々に視座を置いた神々だけの世界である「別天つ神」の世界は、天之常立神(あめのとこたちの神)で終わり、その鏡像としてヒトに視座を置いた神々だけの世界である「神世七代」の世界が、国之常立神(くにのとこたちの神)から始まりました。

その二代めとなるのが、豊雲野神(とよくものの神)です。

  「神世七代」の1代めである国之常立神(くにのとこたちの神)は、「神世七代」の世界が「別天つ神」の世界の写しであることを表象する神ですから、「神世七代」の実体そのものは、2代めである豊雲野神(とよくものの神)から始まる構造を取っているはずです。

 豊雲野神(とよくものの神)は、「神世七代」の中で特別な位置づけにあります。1代めの国之常立神(くにのとこたちの神)と2代目の豊雲野神(とよくものの神)までだけが、別天つ神の神々と同様に独神(ひとりがみ)で隠身なのです(此二柱神亦独神成坐而隠身也=この二柱の神はまた独神(ひとりがみ)と成り、坐(い)まして、身を隠しき)。

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■再掲 表3 神々全体

 

 3代めの宇比地邇神(ういじにの神)・須比智邇神(すいじにの神)以降は独神(ひとりがみ)では無くなり、性別が生じます。つまり、後ろ5代の神世七代の神々は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじの神)に対応していると考えられます。

 そのように考えると、豊雲野神(とよくものの神)は、造化三神に対応している神だと考えることができます。

 造化三神は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が、来たるべき世界の秩序を示し、高御産巣日神(たかみむすひの神)が万物の、神産巣日神(かみむすひの神)が生命の創造力を表象していました。神世七代の世界にそれらを具現化する神が、豊雲野神(とよくものの神)なのです。

 

■雲の神か野の神か
 このように重要な役割を持つ豊雲野神(とよくものの神)ですが、今に至るまで、天地初発の神々の中でも特に注目度の低い神でした。例えば、岩波文庫版の『古事記』では、天地初発の神々の中でこの豊雲野神(とよくものの神)だけが註釈がありません。

 

註釈がないからと言って、分かりやすい神なのかと言えばそうではありません。豊雲野神(とよくものの神)には、豊かな雲に喩えられるような野の神であるとする説(「豊雲・野神」と解釈)と、豊かな雲野(「くもの」雲が野のように広がっている様のことか)の神である説(「豊・雲野神」と解釈)とがあります。

 

 例えば、誰にも簡単に手に取りやすい文庫の解説をみてみると、講談社学術文庫の『古事記』(全訳注:次田真幸・1977年)では、「原野の生成される様を神格化したもの」とあり、角川ソフィア文庫の『古事記』(訳注:中村啓信・2009年)では、「豊は美称。雲は虚空の象徴、野は台状の大地形成の象徴を神格化」とあり、野の神説を取っています。

 

一方で、西郷信綱の『古事記注釈』(ちくま学芸文庫・2005年)には、「ずっと雲のごときものがとろとろと浮動しているさまを暗示」とこちらは雲の神説を取っています。

 

古事記』の文脈からのみ考えれば、豊雲野神(とよくものの神)は野の神ではありえないと私は考えます。

なぜなら、イザナギイザナミが天の沼矛を「地」にさし下ろしてかき混ぜ引き上げ、矛の先からしたたり落ちた塩が重なり積もってオノゴロ島になるまでは、「地」には大陸どころか島さえないはずであり、それ以前に「野」を神格化した神が現れてしまっては、イザナギイザナミの偉業を否定することになって『古事記』の神話体系が崩壊してしまうからです。

 

また、古代音韻学的な研究からも、「豊雲・野神」の区切りは不適切で、「豊・雲野神」であるとの指摘がなされています(『国語史学基礎論』小松英雄・1994年新装版)。

 

豊雲野神(とよくものの神)は、雲の神とみて、まず間違いないと思われます。

 

■ただの雲の神ではない
 ただし、その雲は、空にぽっかり浮かぶ雲の様態にとどまるものではないでしょう。別天つ神によって成る世界の写しとして神世七代の世界があるのですから、豊雲野神(とよくものの神)のありようも、当然、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)や高御産巣日神(たかみむすひの神)、神産巣日神(かむむすひの神)のありようを受け継いでいると考えるべきだからです。

 

古事記』は『日本書紀』のように、多数の「一書に曰く」を設けて異伝外伝を紹介したりはしません。まして、序章に口述筆記であることが明示されています。聞き手が、「次に」「次に」と語られる神のありようを引き継いでイメージしていくことが期待されるように書かれているはずなのです。

 

産巣日神(むすひの神)が単なる日の神ではなかったことから考えれば、豊雲野神(とよくものの神)も単なる雲の神であるはずはないと思われます。産巣日神(むすひの神)における日の神の拡張のロジックを豊雲野神(とよくものの神)に適応すれば、豊雲野神(とよくものの神)は、雲が位置する場における最高神(別天つ神の世界での「天帝」に対応する国の世界の神)であり、雨雲、雪雲、雷雲、雲海など様々な様態を取る雲をそれぞれ表象するものであり、雲の無い状態の表象でもある(「月」は「日」の無いときにあらわれる存在であるのと同様に)でしょう。

天と地との境には、万物を含む存在として大気があり、その大気は循環する水と雷のエネルギーを含み、絶えず動き様々な様態を取ります。それら全てを包含し、かつ時に部分のみを象徴する神として、豊雲野神(とよくものの神)はあるはずなのです。

 

■雲野のイメージ

 別天つ神においては視座は天にあり、神世七代においては視座は地にあると申し上げました。豊雲野神(とよくものの神)は、神世七代の神ですから、視座は地にあります。地から見て雲は天に近く天よりは地に近い存在です。

 この雲を、天の視座から見たらどうなるでしょうか。標高の高い山に登ると、雲は眼下に広がります。雲海という言葉がありますが、その視座は雲を見下ろす位置に固定されてしまいますから、あえて雲海と言わずに雲野というあまり言わない言葉をあて、天からの視座を示唆するに留めた表現が、豊雲野神(とよくものの神)であるようにも思えます。

 

 また、雲野(くもの)つまり雲のフィールドというのは面に展開されていくイメージです。天之御中主神(あめのみなかぬしの神)は、中心の表象ですから点ないしは柱状のイメージがあります。高御産巣日神(たかみむすひの神)は別名を高木神(たかぎの神)と言いますから柱状のイメージです。神産巣日神(かみむすひの神)は、特に形状を意味するものはありませんが、高御産巣日神(たかみむすひの神)と同じ産巣日神(むすひの神)ですから、同様の形状を思い浮かべても不自然ではありません。

 点や柱状の神が、写されて面状になるというのは、ゼロ次元、一次元が二次元に展開していくことですから、別天つ神の世界から神世七代の世界への展開は、次元が上がるというイメージで捉えることも可能だと言えるでしょう。

 

 さて、豊雲野神(とよくものの神)は、地から見て天との間に広がる雲野を表象する神とは言え、その神は実際に地と天との間に誕生したのではなく、あくまで高天原に次に次にと誕生した神の一つです。

 別天つ神の世界から神世七代の世界への展開は、同じ高天原を舞台にした展開です。それは次元を上げていく展開であり、抽象度を下げる(=具体度を上げる)展開です。別天つ神の世界から直接は、神々とヒトとの世界は創造できない、それが『古事記』神話の構造となっています。抽象度の高い神々から、具体度の高い神々の世界を創造し、そこから神々とヒトとの世界を創造していく。それが『古事記』の神話です。この構造は、陰陽思想が陥りがちな二元論を避け、聞き手や読み手に、抽象と具体との往復運動を誘います。その往復運動が、我々の住む世界についての理解を深めていきます。

 

国語史学基礎論 2006簡装版

国語史学基礎論 2006簡装版