日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第十四回 視座の移行(常立神論④)

天之常立神(あめのとこたちの神)は別天つ神の世界を閉じ、国之常立神(くにのとこたちの神)は神代七代の世界を開きました。

これら二神は鏡像関係にある境界の神であり、そのことは、高天原に天と国の二つの世界(別天つ神の世界と神世七代の世界)があることを示しています。

天之常立神(あめのとこたちの神)の鏡像として国之常立神(くにのとこたちの神)が誕生したのですから、この二柱の間には「鏡」の役割を果たすものがあることになります。

※本稿は、稿者独自の解釈を含んでいます。鵜呑みにせず、批判的にお読みください。ただし、独自解釈部分にはその根拠を示し、定説もできる限りご紹介しています。一方的な独自解釈の主張はしておりませんので、安心してお読みいただけます。また、稿者の解釈を採用いただける場合は、その旨ご明示いただけると幸いです。

 

■『古事記』の鏡

ここまで、論理的に二柱の常立神(とこたちの神)を考察してきた結果、「鏡」の存在に行きつきましたが、果たして神々の世界を写すような「鏡」の存在を『古事記』に想定することが妥当かどうか、吟味する必要があります。そうでなくては、仮説とトンデモとの区別がつきません。そのためには、『古事記』での「鏡」がどのような存在であるかを確認し、神々の世界を写すという想定と矛盾がないことを示す必要があります。

 

古事記』の上つ巻(神話部分)で鏡が出てくるのは、次の二つのシーンだけです。

 

まず、初めて鏡が出てくるのは、有名な天の岩屋戸のシーンです。天照大御神が天の岩屋に籠もり、高天原が暗くなってしまったときに、困った天上の神々は岩屋の外で大宴会を催します。天照大御神は暗闇の中で宴が開かれていることを不思議に思いなぜかと問うたときに、神々は天照大御神にも益して貴い神がいらしているからだと答え、天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのみこと)は岩戸の隙間に鏡を差し出します。天照大御神は鏡に写った自身の姿を見ていっそう不思議に思い岩屋の戸を開けたところを手力男神(たじからおの神)が天照大御神の手を取って岩屋から引っ張り出します。

鏡は、神を写す道具として登場しています。

 

次は、天下りのシーンです。天孫降臨の際に天照大御神は、先ほどの鏡を持たせ「この鏡を唯一私の御魂として、自分を祀るのと同様に祝い祀れ」と命令します。

一度自分を映した鏡は、自分が写らない状態になっても自分の御魂と同じだと言うのです。つまり、鏡は姿を写すと同時に、写した神の御魂を永遠に発現する道具なのだということです。

 

このように、『古事記』の鏡は、神を写し、写った神の神威を永久に顕現する道具として描かれています。その鏡は、現代の我々が想像するような、一つの実像のみが本物で、鏡に写ったものは虚像に過ぎないというような関係を構築する道具ではありません。

 

別天つ神(ことあまつかみ)の世界を写し、神世七代の世界を顕す鏡の存在を仮定することは、さほど荒唐無稽とは言えないのではないでしょうか。

 

鏡の語源が影見であり、影とは光・姿・魂をさす*1ことからも、鏡を挟んだ二者の鏡像関係は、両者の神威が等値となるような関係にあるということが言えると思います。

 

では、この「鏡」の実体は何でしょうか。天之常立神(あめのとこたちの神)と国之常立神(くにのとこたちの神)との間にあるのは、別天つ神と神世七代の境界だけです。

 

鏡像関係にある二柱の存在から、鏡の存在を仮定してきましたが、その仮定が真であると言えるためには、別天つ神と神世七代との境界が、「鏡」となるような機能を持っていなくてはなりません。

 

■天にある視座

地上に生きる私たちは、直接には天上の世界を知ることはできないため、想像によって天上の神々の姿を思い浮かべます。我々のよく知る人間とよく似た神々が天上に暮らしているのだろうという発想です。視座は常にリアルに生きている我々のいる世界にあります。

 

古事記』の発想はこれとは逆になっています。視座は天にあります。天が写されて国となっているのはその発想の帰結です。そしてこのような人間中心とは逆の発想、人が神々を想うのではなく、神々の立場から人を想う発想は、天地初発の項で引用した天智天皇の香具山の歌の例にも共通しています*2。つまり、このような視座を神の側に置く発想は、『古事記』に特有な物語上の設定なのではなく、古代に一般的な自然な発想なのだと思われます。

 

■視座の移行と別天つ神の意義
「別天つ神」の別(コト)とは、特別なという意味です。天之御中主神(あめのみなかぬしの神)から天之常立神(あめのとこたちの神)までの五柱の神々は、「特別な天つ神」という属性で括られています。

ところが、それに続く国之常立神(くにのとこたちの神)からイザナギイザナミまでの十二柱の神々は、「普通の天つ神」という属性では括られません。

これは、「別天つ神」に対する「普通の天つ神」は、「神世七代」の十二柱に留まらず、以降も次々に誕生するためです。

「別天つ神」の世界に対峙するのは、「普通の天つ神」のうち、高天原に誕生した「神世七代」までの神々までであるため、「別天つ神」と「普通の天つ神」という対比が成り立たないのです。

天つ神は、別天つ神5柱を含みさらに「神世七代」以降も続くため、たった5柱の別天つ神よりはるかに多く存在します。したがって、天つ神は、その存在のありようを規定する立ち位置が「地」であるのが通常態です。「別天つ神」は、天つ神の中でも存在のありようを規定する立ち位置が「天」である点で、特別な神々なのです。

 

話をもとに戻して、ここで注意したいのは、「神世七代」という属性は、「七代」という暦的な記述による括りになっていることです。『古事記』の記述では、「国わかく浮ける脂のごとくして、クラゲなすただよへる時」以降、時が代わったという記述は、具体的に物語が動き出すイザナギイザナミの国生みまでありませんから、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじの神)からイザナギイザナミまでは、同じ「国わかく浮ける脂のごとくして、クラゲなすただよへる時」に誕生した神々であり、その途中に誕生した国之常立神(くにのとこたちの神)以降は、時は同じながら、そこに暦の発想が持ち込まれるという構造になっています。


暦が必要なのは、神ではなく、天皇誕生以降のヒトです。神に暦が必要なら、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)から暦の発想で記述がなされているからです。

神世七代」と認識する主体は、神々ではなくヒトです。ヒトは地に生まれる存在ですから、その視座は地にあります。ここでいう地とは、やがて定まったあとの国とイコールです。「別天つ神」から「神世七代」への移行は、神々からヒトへの視座の移行になっているのです。

 

 「鏡」の正体

つまり、「別天つ神」と「神世七代」は、「時」をめぐる区分によって分けられているのですが、その区分は認識者の存在する「空間」の区分にもなっています。天の神すなわち天つ神のうち、視座つまり存在のありようを規定する立ち位置が「天」であるのが「別天つ神」であり、天つ神でありながら存在のありようを規定する立ち位置が「地」であるのが「神世七代」以降の天つ神なのです。

 

「別天つ神」と「神世七代」との間には、神々を認識する者の存在する「空間」の区分の存在があることがあきらかになりました。ということは、この区分が「鏡」だということになります。


 天の神すなわち天つ神のうち、視座つまり存在のありようを規定する立ち位置が「天」であるのが「別天つ神」であり、天つ神でありながら存在のありようを規定する立ち位置が「地」であるのが「神世七代」以降の天つ神です。

 これは、天と地は、舞台と観劇席との関係に似ています。天を舞台、地を観劇席と見立てれば、役者や舞台監督の視点と観客の視点とを隔てるものが「鏡」になります。

 

つまり「鏡」は、演者の視点から観客の視点への瞬間移動を媒介する機能を持っています。そしてその「鏡」の機能が立ち現れるのは、「開幕」の瞬間です。「鏡」の正体は、「開幕」なのです。

 

天之常立神(てんのとこたちの神)までで舞台の準備が整い、国之常立神(くにのとこたちの神)で幕が上がる。これが、同じ本質を持った神が続けて登場することの意味に違いありません。


 『日本書紀』には天之御中主神(あめのみなかぬしの神)から天之常立神(あめのとこたちの神)までの別天つ神は登場しません。

日本書紀』の神々の物語は、国之常立神(くにのとこたちの神)に比定される国常立尊(くにのとこたちのみこと)から始まります。それは、天之常立神(あめのとこたちの神)と国之常立神(くにのとこたちの神)とが鏡像関係にあるためだと考えれば理解できます。『日本書紀』の神々の物語は、「開幕」から記述されているのです(開幕前の前口上は中国古典の拝借です)。


 では、開幕以降に上演される『古事記』の神世七代とは、どのような物語を示しているのでしょうか。それは、「別天つ神」の世界の写し絵としての天の「国」の物語であるに留まりません。なぜなら、それは、「神世七代」に続く時空には、神とヒトとが併存する時代がやってくることを示唆し、それを準備する物語となるはずだからです。

 

■世界の時空構造
 「神世七代」と認識する主体は神々ではなくヒトですが、「神世七代」は、高天原に展開される神の時代です。つまり、「神世七代」は、神がおさめる七代ということではなく、神だけがいる七代という意味になります。「神世七代」の「世」の意味は「治世」を意味してはいないのです。

 

 そして、「神世七代」と括られるからには、神だけがいる時代は「神世七代」でおしまいになるということです。「神世七代」のあとにも神だけがいる時代が続いてしまったら、それは「神世X代(X=7+n)」となってしまうからです。

 つまり、「神世七代」というネーミングは、ヒトの誕生を示唆していることになります。

 

来るべきヒトの誕生は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)では預言でしたが、「神世七代」はその確証となっています。実際、『古事記』では、「神世七代」の後、イザナギイザナミの黄泉の国のエピソード、つまり二神がペアでなくなったタイミング(=七代の終わり)で初めてヒトの描写がなされます*3

「別天つ神」=神々に視座を置いた神々だけの世界

神世七代」=ヒトに視座を置いた神々だけの世界

「国生み以降」=ヒトに視座を置いた神々とヒトの世界

という構図です。

神々だけが視野の範囲内であった「別天つ神」の時空に対し、神だけがいる時代ではあるもののその後に来たるべき「神とヒトの世のX代」を見据えた時空記述が「神世七代」なのです。

 

ヒトが誕生する国生み以降の世界の直前に「神世七代」があることによって、ヒトの存在を前提としない「別天つ神」の時空が、超然と際立つ効果を生んでいると思います。

 
日本書紀』は、ヒトから見た神代記でしたが、『古事記』は、人知のあずかりしえない時空を、視座の違いという手法によって、明確に世界の最初に区分し記述することで、神のヒトに対しての絶対的な優位を記すことに成功しているのです。

 

神の恩寵は、ヒトの恵みとなるからありがたいのではなく、ヒトを超越しているから有り難いのだと「別天つ神」は伝えています。そして、そのような超絶した神々の世界が、神々とヒトとが共存する我々の世界と、「神世七代」を経由してつながっているというのが、『古事記』の描く我々の世界の実像です。

 

「作品」として読む古事記講義

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