日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第十四回 高天原の二つの世界(常立神論③)

常立神(とこたちの神)には、産巣日神(むすひの神)同様、バリエーションが存在します。ところが、常立神(とこたちの神)のバリエーションは、産巣日神(むすひの神)とは違い、バリエーションの違いは、能力や形態の違いになりません。

 

天之常立神(あめのとこたちの神)と国之常立神(くにのとこたちの神)は、「天」と「国」という属性以外に違いの無い、能力や形態が同一の二神です。まるで双子の神のようです。

 ■鏡像の神

しかし、これら二神の関係は双子の神ではありえません。二神は、同時に誕生したのではなく、次に次にと連続して誕生しているからです。

 

もっとも実際の双子も産道を通って出てくる順番がありますから、この二柱も双子として誕生してきたのだと主張できそうな気もしますが、そうすると今度は、国之常立神(くにのとこたちの神)だけが神世七代の神とされていることの説明がつきません。

 

神世七代の代は世代を表していますから、天之常立神(あめのとこたちの神)と国之常立神(くにのとこたちの神)とが双子の神であったのなら、それらは同じ世代に区分されるはずです。天之常立神(あめのとこたちの神)と国之常立神(くにのとこたちの神)はあわせて神代七代の神とされなければならなくなってしまいます。

 

つまり、これら二柱は双子の神ではありえません。とすれば、全く同様の常立神(とこたちの神)が二柱存在することの別の可能性を考えなければなりません。

 

双子以外に能力や形態が同一の二神の理由として考えるとすれば、クローンや孫悟空のような分身か、または鏡像でしょう。

 

このうち、分身であれば、二柱に限られる必要性が希薄ですから、『古事記』や他の文献にその他の常立神(とこたちの神)が登場しないことの説明がつきません。

 

少なくとも地之常立神(ちのとこたちの神)くらいあっても良さそうですし、その後の『古事記』の展開を考えれば、孫悟空のような縮小された分身として、島之常立神(しまのとこたちの神)や家之常立神(いえのとこたちの神)は、いらっしゃってもよさそうです。むしろ、いないのはかえって不自然なくらいです。なのにいないということは、国之常立神(くにのとこたちの神)は、天之常立神(あめのとこたちの神)の分身ではないと考えなくてはなりません。

 

となると、天之常立神(あめのとこたちの神)と国之常立神(くにのとこたちの神)は、鏡像関係にあるとみてよさそうです。

 

 天之常立神(あめのとこたちの神)が先に誕生し、次に国之常立神(くにのとこたちの神)が誕生したという『古事記』の記述は、天之常立神(あめのとこたちの神)を写して国之常立神(くにのとこたちの神)が誕生したことを物語っていることになります。

 

 国之常立神(くにのとこたちの神)が示す「国」の意味

 『古事記』は「天地初発」から始まります。本来、天に対置するのは地です。ところが、天之常立神(あめのとこたちの神)の次に誕生したのは、地之常立神(ちのとこたちの神)ではなく、国之常立神(くにのとこたちの神)でした。

 

「天」が自らの鏡像として拓く世界は、すでに存在している「地」ではなく、新しく創造される「国」なのです。

 

また、『古事記』において国とは、国土のような決まった特定の場所を示す言葉ではなく、「神々の住まう場所」という概念を示す言葉です*1

 

だからこそ、天之常立神(あめのとこたちの神)に続いて高天原に誕生した神である常立神(とこたちの神)は、地之常立神(ちのとこたちの神)ではなく、国之常立神(くにのとこたちの神)であるのです。

 

 天之御中主神(あめのみなかぬしの神)から天之常立神(あめのとこたちの神)を経て伊耶那岐神・伊耶那美神に至るまで『古事記』の冒頭に記される次に次にと成れる神々はすべて高天原に成れる神々です*2。鏡像の舞台は、高天原、つまり天なのです。

 

常立神の神名の前半部分は、「場所」+「之」という構造になっていますから、”地之常立神”では、「地」に在る「常立神」となってしまい、高天原に成った神の名には採用できません。逆に言えば、「国」は概念ですから、どこに存在してもよいのです。

イザナミイザナギの「国生み」以前には「地」には国土はありません。それどころか、天の沼矛によってオノゴロ島が出来るまでは、「地」には大陸はおろか島さえなかったのです。「国生み」以前の「国」は、「国土」や「陸地」に所在を求めることはできません。
 概念というのは、それだけではただの可能性を言っているのにすぎません。『古事記』は、高天原国之常立神(くにのとこたちの神)を登場させることにより、この可能性を定義に変えたと言えるでしょう。

「国」が国土とは違い、実体を伴わない概念であり、また、場所に縛られる「地」とは明確に区別されるべき存在であることを明らかにしたのです。

 

■完璧な世界

 天之常立神(あめのとこたちの神)は、別天つ神(ことあまつかみ)の最後の神です。これは、天之常立神(あめのとこたちの神)の誕生により、別天つ神(ことあまつかみ)の世界が終わったのだと言い換えることができます。

 

天之常立神(あめのとこたちの神)と国之常立神(くにのとこたちの神)は、ともに常立神(とこたちの神)ですから、その能力や形態は全く同一のはずです。天之常立神(あめのとこたちの神)は世界を閉じる神ですから、国之常立神(くにのとこたちの神)も世界を閉じる神であるように思えます。

 

ところが、国之常立神(くにのとこたちの神)は、神代七代の筆頭です。世界を閉じるのではなく、神代七代の世界を開く位置づけにあります。ここに鏡像の意味があります。

 

鏡像は反転です。国之常立神(くにのとこたちの神)は天之常立神(あめのとこたちの神)の鏡像として誕生したがゆえに、国之常立神(くにのとこたちの神)は、新しい世界を開く神となったのです。

 

「天」と「国」とが鏡像関係にあるということは、「天」の映しが「国」であるということを意味します。

 

天之常立神(あめのとこたちの神)の誕生以前、別天つ神(ことあまつかみ)の世界は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)から、高御産巣日神(たかみむすひの神)、神産巣日神(かむむすひの神)、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじの神)の四神によって構成されていました。

 

神名の意味で言えば、別天つ神(ことあまつかみ)の世界とは、それぞれがそれぞれを必要とし、なおかつそれぞれが中心でもある世界の創造(天之御中主神)、漠然とした万物の創造力(高御産巣日神)、神が主体的に働く生命の創造力(神産巣日神)、人間を先取りしたヒトの雛形であり天以外の他者に生命を産ませる性の象徴(宇摩志阿斯訶備比古遅神)から成る完結した世界です。これが、「国」のもととなった「天」の世界です。

 

国之常立神(くにのとこたちの神)が開いたのは、「天」を投射し創られた「天」の似姿である「国」の世界です。これが、神代七代の世界です。


 『聖書』には、「神は人を御自分の像(かたち)の通りに創造された。」[『旧約聖書』創世記第1章二十七]と記されています。それに倣って言うならば、『古事記』に記されているのは、「天は国を御自分の像(かたち)の通りに創造された」ということなのです。

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(つづく)