日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第九回 時間は天に属さない(宇摩志阿斯訶備比古遅神論①)

 天地初発のとき、高天原に、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)、高御産巣日神(たかみむすひの神)、神産巣日神(かみむすひの神)が次に次にと誕生します。ここまでが、『古事記』冒頭233文字の一段落目*1です。

 二段落目からは、時が変わります。「国わかく浮ける脂のごとくして、クラゲなすただよへる時」です。「クラゲなす」とは「クラゲのように」という意味です。

※本稿は、稿者独自の解釈を含んでいます。鵜呑みにせず、批判的にお読みください。ただし、独自解釈部分にはその根拠を示し、定説もできる限りご紹介しています。一方的な独自解釈の主張はしておりませんので、安心してお読みいただけます。また、稿者の解釈を採用いただける場合は、その旨ご明示いただけると幸いです。

 

■天と時間

 以降の説明のために、ここで便宜的に、一段落目の3柱の神々を「別天つ神A」、二段落目の2柱の神々を「別天つ神B」と呼ぶことにします。両者の関係をわかりやすく確認するために、表1を再掲します。誕生順で1~3が「別天つ神A」、4,5が「別天つ神B」です。

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■表1.別天つ神

 Aの時間は、「天地初めてあらわしし時」で、「初めて」という「時の順序」に重きが置かれており、初めての時がどのような様子だったかについては記述がありません。

 これに対してBの時間は、「国わかく浮ける脂のごとくして、クラゲなすただよへる時」であり、「時の様子」に重きが置かれています。「時」の描写でありながら、描写の内容が情景になっています。

 ここで注意すべきは、この情景「国わかく浮ける脂のごとくして、クラゲなすただよへる」は、「国わかく」とあるように「天」の情景ではなく「地」の情景だということです。天の時をあらわすのにわざわざ地の情景を参照しているのです。

 以降の記述も含め、『古事記』では、「時間」は「地」によってのみ語られます。

 恐らくは、「天」にとって「時間」は重要ではない、もしくは「天」は一つの「時間」の描写には適した存在ではないと考えられていたのだと思われます。『古事記』の「時間」は、「天」ではなく「地」に属しているのです。

 例えば、現代に生きる我々は、知識として天の星の位置は様々であり、地球からの距離もひとつひとつ違うために、いま地球から見えている星の時間(=光が発せられた時)はすべて異なっていることを知っています。『古事記』において似たような発想があったどうかはわかりませんが、天を舞台とした物語に、時間が無意味であることは、その理屈はどうあれ、今も昔も変わらぬ認識のようです。

 

■葦と『古事記』の時空認識

 さて、「国わかく浮けるあぶらのごとくしてクラゲなすただよえる時に」宇摩志阿斯可備比古遅神(うましあしかびひこじの神)が誕生するのですが、この神の誕生シーンは、「葦牙(あしかび)のごとく萌えあがれるものによりて成りませる」という情景描写がなされています。

⑤次に、国わかく浮けるあぶらのごとくしてクラゲなすただよえる時に、葦牙(あしかび)のごとく萌えあがれるものに因(よ)りて成りませる神の名は、宇摩志阿斯可備比古遅神(うましあしかびひこじの神)

 葦牙(あしかび)というのは、水辺に生える植物の葦(芦)の新芽のことです。

何かまるで芦の新芽のように萌え上がるものがあって、それに起因して誕生した神の名だから宇摩志阿斯可備比古遅神(うましあしかびひこじの神)というのです。

 葦は、17世紀のフランスの思想家パスカルが言った「人間は考える葦である」で有名なあの葦のことです。古今そして洋の東西を問わず、葦という植物は、何か根元的なことを考えさせずにはいられない、そのような植物のようです。

 「葦」は植物ですから、当然ながら地上の生物であり、その存在は「地」に属します。「高天原」の存在から明らかなように、『古事記』の認識においても「場所」は「天」にも「地」にもあるのですが、その高天原の「天」の情景描写は、「葦牙(あしかび)のごとく」という表現、つまり、「天」に属するものではなく「地」に属する物によるシミリー(直喩)でなされています。

 「時間」だけでなく「場所」においても、「天」を語るのに「地」をもってしているわけで、『古事記』では、「天」=抽象、「地」=具体という舞台設定の区分がなされていることがわかります。

 「天」は抽象かつ時間を超越した空間であり、「地」は具体かつ時間を伴う空間であるというのが『古事記』の時空認識です。

 このような設定区分は『日本書紀』にはありません。「天地開闢」では、「天」と「地」はともに陰陽の動的変化の帰結であり、抽象具体の観点はありません。『古事記』と『日本書紀』とでは、時空認識が大きく異なっていることがわかります。

 

■国は国土を意味しない

 さて、このように、「天地初発」から推移した「天」の新しい時間は、「国わかく浮ける脂のごとくして、クラゲなすただよへる時」であると、具体的な「地」の情景描写をもって語られるのですが、その情景描写の意味するところを把握することによって、『古事記』が「国」という概念をどのように捉えていたががわかります。

 

  まず、「国」は国土を意味しません。国土はさらに神世の時代が下ったあとにイザナミが産むものだからです。「国生み」以前に「地」に国土があるはずがないのです。

 また、この「国」は陸地のことですらありません。なぜなら、イザナギイザナミが天の沼矛を与えられ、「国がクラゲなすただよえる場所」にさし下ろしてかき混ぜ引き上げ、矛の先からしたたり落ちた塩が重なり積もってオノゴロ島になるまでは、「国」には大陸どころか島さえなかったからです。それまでの「国がクラゲなすただよえる場所」には陸地はまったくなく、水に覆われていたのです。

 ですから、「国わかく浮ける脂のごとくして、クラゲなすただよへる」とは、陸地がまだできたばかりで固まっていないで脂のように軽くてプカプカと浮いてクラゲのように漂っている状態を指していると記述している『古事記』の解説書は、イザナギイザナミの国生みに関する記述を無視したあきらかな誤りだということがわかります。

 岩波文庫の『古事記』(倉野憲司)も、角川ソフィア文庫の『古事記』(中村啓信)も、講談社学術文庫の『古事記』(次田真幸)もすべてそうなのですが、これらはおそらく、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじの神)の阿斯訶備(アシカビ)を、『日本書紀』の葦牙(あしかび)の記述にあてはめてしまったことによる誤りであると思われます。

 

■葦牙の違い

 『日本書紀』の冒頭部分から葦牙(あしかび)のシーンまでは次のように書かれています。わかりやすくするため、葦牙は太字で記します。

いにしえに天地いまだ剖(わか)れず、陰陽分かれざりしとき、まろかれたること鶏子の如くして、ほのかにして牙(きざし)を含めり。それ清(す)み陽(あきら)かなるものは、たなびきて天となり、重く濁れるものは、つづきて地と為るに及びて、精妙なるが合へるはむらがりやすく、重く濁れるが凝りたるはかたまり難し。故、天まず成りて地後に定まる。然して後に、神聖、其の中に生(あ)れます。故、曰く、開闢の初めに、洲壌(くにつち)の浮かび漂へること、たとえば游魚の水上に浮けるが猶し。時に、天地の中に一つの物生(な)れり。かたち葦牙の如し。すなわち神と化し為る。国常立尊と号(もう)す。

拙訳を記します。

 昔、天地がまだ別れず、陰陽も分かれていないとき、混沌として卵の中身のように固まっていなかったが、薄暗い中にきざしができていた。やがて清らかな陽気はたなびいて天となり、重く濁った陰の気は滞って地となった。つまり澄んであきらかなものはひとつにまとまりやすかったが、重く濁ったものが固まるのには時間がかかった。ゆえに、天がまずできて地があとからかたまった。しかるのちに神がその中から誕生した。それで、天地開闢のはじめに、国土の浮き漂う様は、まるで泳ぎ回る魚が水の上に顔を出しているかのようであった。そんな時、天と地との中に一つのものが生まれた。形は葦の芽のようであった。それが神と化した。国常立尊と言われる神である。

 

 『日本書紀』の「天地開闢」の世界は渾沌から始まります。渾沌は陰陽の原理により、陽の気はたなびいて「天」となり、陰の気はとどこおって「地」となります。「地」は重く、下に沈んでゆっくり固まっていきます。「天」がまずできて、「地」があとからできます。そして、神は「地」の中から誕生します。

 この時点の「地」は、完成形ではありません。「地」は重さのある物質であり、それはやがて洲壌(くにつち=国土)となっていくのですが、「天地開闢」のはじめの「地」は、まるで泳ぎ回る魚が水の上に顔を出しているかのようだったと描写されています。

 ここで注意すべきは、「まるで泳ぎ回る魚が水の上に顔を出しているかのよう(たとえば游魚の水上に浮けるが猶し)」は、シミリー(直喩)だということです。『日本書紀』では、国土は、水を泳ぎ回るように「天」を三次元的に動き回っているのであって、水面に陸地が泳ぎ回っているのではないのです。

 ですから、天地の中にやがて神となるものが生まれたという記述になります。地は天をさまよっていますから、神は地に生まれた(其=地の中に生れます)とも天地の中に生まれた(天地の中に一つの物なれり)とも記述され、その両者に矛盾はないのです。

 そして、『日本書紀』では葦の芽のような形の何物かが浮き漂う陸地(国土)に生えてきます。だからその神は「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」と言うのです。

 このように、『日本書紀』の「天地開闢」を丁寧に読めば、同じ「葦牙(あしかび)」の記述はあっても、『古事記』のそれとは、まったく別のことを言っており、決して混同できるようなものではありません。

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■表4.葦牙の対比

 

 前回までに解説したように、『日本書紀』の冒頭部分は漢籍からのコピペです。それを『古事記』にあてはめて考えてしまえば、解釈を誤るのは当然です。

 『古事記』と『日本書紀』とを同じ内容と考え、「国わかく浮ける脂のごとくして、くらげなすただよへる時」を、「くにつち(国土)が、水中を泳ぎ遊ぶ魚が水面に顔を出すように浮かんで漂っている時」だと解釈してしまうことは、とんでもない誤りであることがわかります。

 

■2Dのクラゲ、3Dの魚

 「記紀神話」的な先入観を完全に取り払ってしまえば、葦牙(あしかび)をめぐる『古事記』の描写は、むしろ『日本書紀』的な世界観とは正反対の様相をあらわしてきます。

 葦牙(あしかび)とセットで語られる時の描写の比喩表現は、『日本書紀』の「游魚の水上に浮ける」という記述が、動的かつ塊感のある「魚」が「游(およ)ぎ、水上に浮」くという能動的で3D的なものであるのに対し、『古事記』の「浮ける脂のごとくして、クラゲなすただよへる」は、静的かつ厚みの全くない「脂」が、「クラゲ」というこれまた静的で厚みのないもののように漂うのですから、受動的で平面(2D)的なものです。

 陰陽思想に基づいた『日本書紀』「天地開闢」と対極的ともいえる世界創生観を記した『古事記』「天地初発」は、時を「国わかく浮けるあぶらのごとくしてクラゲなすただよえる時に」移して、さらにその対極的な思想を展開していきます。それは、国に関する思想です。

 それは、「葦牙(あしかび)」という同じキーワードを用いることで、後世に生まれた人々にとっては「記紀神話」的な混同による誤読を促す結果を生んではしまいましたが、710-720年の同時代の人々にとっては、まるでベビーフェイス(善玉)のプロレスラーが突如ヒールターン(悪玉転向)したかのような、同じキャラクターであるがゆえにかえって鮮やかな対比の印象を残していたのではないでしょうか*2

 

■国とは神々の住まう場所

 国土ではなく陸地ですらない 「国わかく浮ける脂のごとくして、くらげなすただよへる時」の「国」は、「国」という概念であると理解するのが自然です。

 やがて実体としての国土となる「国」の概念とはなんでしょうか。イザナギイザナミが生んだ「国」では、神々が様々な活躍を繰り広げます。そのような場所が「国」なのですから、そこから陸地という実体を取り去ったものが、「国」の概念となります。「国」とは、「神々の住まう場所」のことに他なりません。

 「国わかく浮ける脂のごとくして、くらげなすただよへる時」とは、「神々の住まう場所を検討しはじめたばかりで、国をどこにしようかあてどなく水面を探し求めている時」であると解釈すべきなのです。

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■表5.葦牙の記述に関する比喩表現の対比

 「脂」も「くらげ」も、限りなく透明に近く、限りなく厚みのない存在です。水にたらしたあぶらがゆらゆらとくらげのように漂う様は、現代風の比喩表現で書き直せば、天からのサーチライトが水面をあてどなく行き来する様のようです。

 くらげは海月とも書きます。高天原のムスヒの力は、月として新たなる神々の棲まう場所を地に求め、地の水面に映し出された仮想の「国」の境界線は、確定されていないがゆえに、海の上に映る月の影のようにただよっていました。そんなイメージも浮かびます。

 そのような時に誕生したのが、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじの神)なのです。(つづく)

*1:本稿では『古事記』冒頭部分を「段落」として整理している。「段落」の定義については次を参照いただきたい。

240年目の古事記伝 第七回 233文字の構造(産巣日神論①) - 日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

*2:古事記』(712年)は、『日本書紀』(720年)より先に書かれてはいるが、それぞれの元となったものの年代を考えれば、『古事記』(元となった『帝紀』『旧辞』はともに680年頃の成立)は、『日本書紀』が書き写した漢籍(『淮南子』の成立は前179ー前122年頃、『三五暦紀』の成立は220-280年頃)を意識して書かれた可能性は十分にあると考える。