日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第九回 世界の創造と神の主体性(産巣日神論③)

高御産巣日神(たかみむすひの神)と神産巣日神(かみむすひの神)とは、タイプの異なる産巣日神(むすひの神)です。それらは独神(ひとりがみ)であり、その働きは、全く個別に考えなければなりません。

唯一無二の存在であるはずの産巣日神(むすひの神)が一神ではないということは、一神の産巣日神(むすひの神)だけでは、いまの世界に至るには十分ではなかったことを意味します。

「高御(たかみ)」産巣日神(むすひの神)だけの世界では世界には欠けているものがあるために、「神」産巣日神(むすひの神)が誕生したのです。

 

■2つの産巣日神(むすひの神)の意味

「高御(たかみ)」は「高御座(たかみくら)*1」という言葉があるように、最上級の敬称をあらわす接頭語です。つまり、高御産巣日神(たかみむすひの神)は、最高の産巣日神(むすひの神)です。最高の「産巣(むす)=生成」の力を持った神ということです。

神産巣日神(かみむすひの神)の一文字目の「神」は、「高御」と同様に、どのような産巣日神(むすひの神)であるかを説明する修飾語句です。即ち、神産巣日神(かみむすひの神)は、「神としての」「神に関わる」「神ならではの奇跡的な」産巣日神(むすひの神)です*2

このことから、『古事記』は、最高の創造力を持った神では十分ではなく、「神としての」「神に関わる」「神ならではの奇跡的な」創造力を持った神が必要だったと書いていることがわかります。

 

■「天地創造」との共通点

最高の想像力を持った神では、世界の創造には不十分だという『古事記』「天地初発」の世界観は、万能の神が世界を創造したとする『聖書』「天地創造」の世界観とは、正反対のように見えます。

ですが、実は「天地創造」にも同様の発想を見て取ることができます。『旧約聖書』の冒頭部は次のとおりです。

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけた。夕となり、また朝となった。第一日である。[日本聖書協会 口語訳]

 この記述には、よく考えると、おかしなところがあります。

神は「光あれ」と言ったのですが、いったい誰に言ったのでしょうか。

もし神の発した「光あれ」という言葉が命令だとしたら、その命令は神の命を受けて光を創造するものに向けられなければならないはずです。ところが、そのときの世界には、神の他には、闇である天と、水に覆われた地しか存在しません。

神の命を受けて光を創造するものは神自身しかありえません。存在しない光に対して「あれ」とは命令できません。ちょっと古い例えですが*3、例えば、幕が上がる前の舞台で、前口上をする人物が「男の中の男、出て来いや!」ということばで、舞台に立つ男を呼び込む場面を想像してみましょう。この呼び込みの命令が成立するのは、「男の中の男」が既にどこかに存在してはいるが隠れておりかつその命令を聞ける状態になっている場合のみです。もし舞台袖や会場のどこにも誰もいなければ、幕が上がっても「男の中の男」があらわれるはずはありません。

 

■神の独り言

同様に、ない光に対して「あれ」と言っても光はあらわれるはずが無いのです。つまり、このとき神は独り言を言ったことになります。神は黙して世界を創造したのではなかったのです。

そしてこの独り言は命令です。黙っていてもできることについて、自分に対して自分が命令しながら行うということは、自分の行いに主体的な意志があるということです。神の独り言とは、神が主体として創造力を発揮した描写であると解釈できます。

旧約聖書』の神は「神として」「神ならではの奇跡的な」創造力を発揮して世界を創造したのです。

神の独り言は続きます。そして、神の独り言の内容は、非生命から生命へ向けられたベクトルで語られています。『旧約聖書』から神の独り言の部分だけ抜き出してみます。

「光あれ」

「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」

「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」

「地には青草と。種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」

「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」

「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」

「生めよ、ふえよ、生みの水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ。」

「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」

[すべて日本聖書協会 口語訳]

旧約聖書』の神は、生命という対象を生むために、主体としての行動を取りました。神が独り語るという特異点が生命への画期となっているのです。

 

 神の独り言は、人間の独り言とはその意味するところが違います。キリスト教の神は唯一絶対の創造神であるために、その創造の行動は、意図したものであっても、意図せざるものであっても、世界がその通りに創られてしまうような性質を持っています。キリスト教の神は無謬だからです。

従って、創られた世界の側の視点に立てば、意図したものであっても、意図せざるものであっても、その創造の行動は絶対、つまり必然です。

 もちろん、人間の行動も、意図したものであっても、意図せざるものであっても、何かしら世界がその影響を受け変質変容してしまう点は同じです。しかし、人間は創造神ではない以上、その行動はたとえ神から見て必然だったとしても(=仮に予定説を採用したとしても)、人間から見た人間の行動は、必然が人間に認識できないがゆえに世界に対しどこまでも多様に開かれているという性質を持っています。

人間にとっての世界は、無数にありうる存在としてしか認識できないのです(だから、人間は「あのときああしなければよかった」の類の後悔をする生き物なのです)。

 神の行動がすべて必然性に基づくものだという前提を採用すれば、神は必然として独り言を言ったことになります。

それは、神がただ単に無限の創造力を発するだけでは生命を生み出すことはできないことを意味します。

生命誕生には、神としての独り言が必要でした。神の独り言とは、神があえて神という主体として語るという行為です。

主体が、対象を生むのです。

神が主体として言を発することで、その対象としての生命が生まれえたのです。「神は「光あれ」と言われた。」この「言われた」という行為のゆえに、「光があった」のです。

 

■独神でなければならない理由

古事記』の場合はどうでしょうか。高御産巣日神(たかみむすひの神)に次いで神産巣日神(かみむすひの神)が連続して誕生したことの意味を考えてみます。
高御産巣日神(たかみむすひの神)と神産巣日神(かみむすひの神)のように一見して同種なはずの二神が、独神(ひとりがみ)として、関係性の中でこそ意味を持つ神々ではないとされていることは重要です。高御産巣日神(たかみむすひの神)と神産巣日神(かみむすひの神)とを、関係性の網から解き放って考えてみましょう。

理解を簡単にするために、独神(ひとりがみ)の逆を考えてみます。高御産巣日神(たかみむすひの神)と神産巣日神(かみむすひの神)とが、ともに二柱でこそ意味を持つ神であった場合を考えてみます。

一般に、AとBとが比類すべき、即ち対比できる特徴を持つとは、Aを代表する特徴はBを代表する特徴ではなく、またBを代表する特徴はAを代表する特徴ではないということです。至高の産巣日神である高御産巣日神(たかみむすひの神)と、「神としての」あるいは「神に関わる」「神ならではの奇跡的な」産巣日神である神産巣日神(かみむすひの神)が対比できる存在であるとすると、神に関することは至高ではないことになってしまいます。これでは「高御産巣日神」という名前は形容矛盾です。

二神はともに至高の存在であるがゆえに、ともに独神(ひとりがみ)でなければならないのです。
 「天地初発」には二つの比類無きムスヒの創造の力が必然として描かれています。世界に、原点としての中心があらわれた後、世界はムスヒの創造力で展開しますが(高御産巣日神)、それが生命につながるには、単に神の創造力ではなく、「神として」と自称する神としての創造力(神産巣日神)を経由することが必要だったのです*4

漠然とした万物の創造力だけでは、生命にはつながらず、神が主体を明らかにした創造力がうまれなければ生命への道はひらかれませんでした。これら二神の創造力は、同じ「産巣日」という言葉で記述されています。しかし、それらは互いに比類ないものです。

つまりは、非生命と生命とは、まったく別の創造のはたらきによってつくられたということです。高御産巣日神神産巣日神の神一厘の違いによって、我々のいる生命のある世界が創られたのです。


 『古事記』も『旧約聖書』もともに語るところは、万能の創造力を持つ神がただあるだけでは生命はうまれず、「神として」の自覚のうちに神がはたらくことではじめて、世界は生命に満ちた存在になったのだということです。

*1:天皇の座

*2:「神を」創造する産巣日神ではありません。神を創造する代表的な神は、伊耶那美神・伊耶那岐神などであり、この段階で「神を」創造する神が登場してしまうと、以降の『古事記』の物語が成立しません。

*3:かつて大晦日に放映されて人気を博していた総合格闘技イベントPRIDEでの高田延彦氏の決めぜりふは、「男の中の男たちよ、出てこいや!」でした。


高田延彥2004男祭

*4:我々のいる世界が生命にあふれた世界であるということを前提に、天地初発の条件を帰納法的に考察しています。二神は連続して誕生するため、論理的には、高御産巣日神(たかみむすひの神)が生物創造の産巣日神(むすひの神)、神産巣日神(かみむすひの神)が生命以外の万物創造の産巣日神(むすひの神)と考えることも可能です。