日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第五回 高天原という思想(「天之御中主神」論②)

  「天地はじめてあらはしし時、高天原に成れる神の名は天之御中主神」(天と地だけが始動し、それ以外の世界の構成要素はその存在を明らかにしていない、そんな時に高天原に最初の神があらわれました)という文章から『古事記』は始まります。

 天之御中主神(あめのみなかぬしの神)は、高天原に誕生したのですが、この高天原は『日本書紀』本文には記述がありません*1。この『古事記』に独自の高天原に注目し、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が高天原に誕生したことを必然と見なすとき、『古事記』のコスモロジーは展開していきます。

※本稿は、稿者独自の解釈を含んでいます。鵜呑みにせず、批判的にお読みください。ただし、独自解釈部分にはその根拠を示し、定説もできる限りご紹介しています。一方的な独自解釈の主張はしておりませんので、安心してお読みいただけます。また、稿者の解釈を採用いただける場合は、その旨ご明示いただけると幸いです。

 

 ■天の中心の二重構造

 天之御中主神(あめのみなかぬしの神)は、ただ天に誕生したのではなく、高天原に誕生しました。このことは、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の誕生によって、天にただあった高天原が、天の中心の意味をも持つようになったことを意味します。ただ存在としてあった高天原が、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が誕生することによって、天の中心に再定義されたのです。『古事記』の天の中心は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)でありながらも、高天原も天の中心の場としてあるという二重構造なのです。

 

 『日本書紀』には存在しない『古事記』のこの二重構造によって、単なる神名の羅列に見えた『古事記』の冒頭が、実はダイナミックなものであることが見えてきます。

 

これまでの解析で、中心を表象する天之御中主神の誕生の意味は、人間の誕生の約束であったことがあきらかになりました。中心には、それを中心だと認識する存在が不可欠だからです。

 

高天原が保証するもの

 しかしながら、原理的には天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を中心と認識する存在がヒトである必要はありません。『古事記』では、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の誕生以降、「次、高御産巣日神(たかみむすひの神)。次、神産巣日神(かむむすひの神)…次、伊邪那岐神(いざなぎの神)。次妹伊邪那美神(いざなみの神)。」と全部で十七柱の神々が続々と高天原に誕生します。これら天之御中主神(あめのみなかぬしの神)以降に誕生した神々が、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を中心だと認識する存在であれば、わざわざ人間の誕生までが約束される必要はないはずです。

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■図3.中心と観察者としての神々


 ところが、神々が天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を中心だと認識する存在としては定義されない構造が『古事記』にはあるのです。それが高天原です。

 

 高天原は天の中心ですから、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)以降の神々は天の中心の神々として誕生します。中心である認識者が、自分以外を中心として認識すれば、その瞬間に、認識主体は中心以外となってしまいます。つまり、天の中心の神々は、自らが中心であるがゆえに、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を中心として認識することはできないのです。

 

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■図4.中心と認識し合う神々


 高天原という場の存在があるために、神々以外に天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を中心として認識する存在=ヒトの誕生が必然となっているのです。

 

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■図5.中心の二重構造

 中心は、中心ならざるものとの対比においてしか中心たりえません。巨大な銀河の厚みと縁(へり)、北極星とその周りを回る星々、天空にひときわ明るく輝くシリウスと控えめに輝くそれ以外の星々、すべてを照らす太陽と照らされる万物…。中心は、観察者に中心以外の存在と同時に認識されて初めて中心としての意味を持つのです。

 

天之御中主神が約束するもの

 天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の神名が示すヒトの誕生の約束は、同時に、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)に続く神々の誕生の約束にもなっています。天之御中主神(あめのみなかぬしの神)は、天の中心の神々の中にあって、自らを中心として認識される必然性を持った存在(=神名)だからです。


 このように、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が生まれたとき、観察者としてヒトの誕生が約束され、そのことは高天原に次々と神々が誕生していくことの約束でもあったのです。

 『日本書紀』の本文にはない高天原を必然として読むことによってあきらかになる『古事記』の構造は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)は、高天原に誕生したがゆえに、天つ神(=高天原の神々)の誕生と、高天原の神々を天の中心として見る存在としてのヒトの誕生とを必然としたのだというものです。

 

■「天地初発」が創った世界
 中心は、ピラミッド的な上下の、あるいは曼陀羅的な放射状の秩序を創ってしまうものですが、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)は、ギリシャ神話のゼウスのように他の神々に君臨したりはしません。『古事記』には、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が他の神々に対して支配者として振る舞うような記述はでてこないのです。
 これは、構造的には、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)に先行してあった高天原が、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の誕生によって天の中心の場とされたことで、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)とそれ以外という秩序が構築されずにすむ環境ができたからだと言えますが、この構造は『古事記』のメッセージであるはずです。なぜなら、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)と高天原という天の中心の二重構造は、『日本書記』には出てこない『古事記』のオリジナルだからです。


 『古事記』は、最初の神を天之御中主神(あめのみなかぬしの神)としました。それは、宇宙にたった独りであるときにも---ただ一柱の存在でありながらも同時に他の神々に比類される---孤独ではない神でした。その神は、未だ創造されぬヒトの視線とともに産まれました。そしてその神は、高天原に誕生することを選びました。それは、続く神々の誕生の約束となり、その神々が、それぞれ中心として活躍することを保証する祝福となりました。


 中心は君臨や支配とは違うのです。君臨や支配が中心と不可分であるような、トップが必然的に孤独となるような世界は創造されなかった。神も人も場も必然であり、それぞれがそれぞれを必要とし、なおかつそれぞれが中心でもある世界。それが、『古事記』のメッセージであり、「天地初発」が実現した、「天地創造」とも「天地開闢」とも全く異なる固有の世界像なのです。

 

*1:日本書紀』に高天原が登場するのは本文ではなく一書に曰くとしてのみです。その際も、天地開闢の始原の神々(國常立尊と國狹槌尊)とは区別され、高天原は曰天御中主尊(あめのみなかぬしの神に相当)、高皇産靈尊(たかみむすひの神に相当)、神皇産靈尊(かみむすひの神に相当)とセットで記述されています(「一書曰、天地初判、始有倶生之神、號國常立尊、次國狹槌尊。又曰、高天原所生神名、曰天御中主尊、次高皇産靈尊、次神皇産靈尊。皇産靈、此云美武須毗。」)ので、この一書に曰くの記述は『古事記』の記述と矛盾しません