日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第五回 『古事記』と『聖書』のコスモロジー(「天之御中主神」論①)

古事記』に最初に登場する神は天之御中主神(あめのみなかぬしの神)ですが、これまでの『古事記』研究では、この神にあまり注意が払われてきませんでした。

古事記』本文中に最初の1回しか登場してこないので、さして重要な神ではないだろうと思われてきたのです。しかし、神話の冒頭が重要で無いというのは不自然です。ユダヤ教では『旧約聖書』の冒頭部分をトーラーと言って後段部分と区別し特別に重視していますし、小説は冒頭が重要だということは誰もが指摘するところです。

天之御中主神を軽視することは、『古事記』を聖典でも文学でもないと言うに等しい行為なのですが、そのような読み方が『古事記』のこれまでの読み方の主流に居座っていたのです。

ここでは、冒頭を軽視するといったことをせずに、聖典や文学に対する普通の態度で『古事記』を読んでみるとき、はじめて立ち現れてくる天之御中主神の意味について考察していきたいと思います。

それは、「最初の1回しか登場してこないから重要な神ではない」というこれまでの常識とは正反対に、「重要な神なのになぜ最初の1回しか登場してこないのか」という問いを立て、その答えを『古事記』の中に探し当てるような読み方です。

 

■神の不在からはじまる『古事記

 『古事記』の最初の一文は、「天地はじめてあらはしし時、高天原に成れる神の名は天之御中主神」です。現代語に直すと、「天地が初めて天地であることをあらわした時、高天原に誕生した神の名は天之御中主神である」となります。

天と地だけが始動し、それ以外の構成要素は世界にその存在を明らかにしていない、そんな時に高天原に最初の神があらわれたのだという内容です。

この一文での登場者は、天と地と天之御中主神三者ですが、登場の様子は同じではありません。天と地は自ら意志を持ってその存在をあらはしたのですが、神は「成」れり、つまり生成しています。

神が「成」るという言葉には「成」る以前の状態が暗示されています。ひとつの「時」で括れる時間の幅がどのくらいかはわかりませんが、天地が初めて天地であることをあらはしたのちに神の不在の時間があったことがわかります。まず天地という舞台が出来、そこに神が誕生したのです。『古事記』の書き出しは、神の存在から始まる『聖書』とは対称的です。

 

■中心のない世界

誕生した神の名は、天之御中主神です。天の中心の主である神という意味です。名前が神の性質をあらわしています。冒頭の記述は全体をどう読むかのマニュアル的な役割を果たします。『古事記』の冒頭の記述によって、以降の神の性質を知るには、その神の名前を解釈すればよいことがわかります。


天之御中主神は、天の中心にいらっしゃる神であると説明されることがありますが、とらわれずに読めば、『古事記』に書かれているのはその逆です。天之御中主神の誕生以前に中心についての記述はありません。天之御中主神の誕生以前には、天には中心がなかったのです。
また、天之御中主神は、高天原に誕生しました。「天」の字が入っていますから、高天原は地ではなく天にあることがわかりますが、高天原が天の中心であったということはどこにも書かれていません。高天原は、天之御中主神の誕生によって天の中心となった場所なのです。

天之御中主神は、天の中心の表象です。天と地しかない世界で、天には中心が存在していません。そこに天之御中主神があらわれ、天に中心がもたらされました。同時に、天之御中主神が誕生した場所である高天原が天の中心に位置づけられました。これが『古事記』が描く世界の始原です。

 

天之御中主神は、多様な中心を表象する
さて、天之御中主神は、室町時代以降に道教北極星信仰が仏教に導入された妙見菩薩と習合しますが*1天之御中主神妙見菩薩と考えてしまうと天之御中主の性格を見誤ります。天之御中主神⊋(「⊋」は真部分集合*2を表す数学の記号です)妙見菩薩です。つまり、天之御中主神妙見菩薩の要素を持ち、またそれ以外の中心の要素を持つ神なのです。

天の中心が指すものは様々です。空を廻る星々の中で、唯一動かぬ北極星を天の中心と見る人がいます。星空で一番明るいシリウスを天の中心と見る人もいます。天は夜空だけではありません。昼も含めて最も明るい天体である太陽を天の中心と見る人もいます。天体の天体である必要もありません。巨大な銀河の中心、レンズの形の一番厚みのあるところの真ん中の位置、ここが天の中心かもしれません。天之御中主神は、そのどれをも表象する神になります。

 

■造化の三神は高度な抽象化を表象する

このことは、中心という抽象的概念の神名を具体物に対応することによる論理的帰結ですが、歴史学的な傍証もあります。天之御中主神は、その次に誕生する高御産巣日神(たかみむすひの神)、神産巣日神(かむむすひの神)とあわせて造化の三神と呼ばれますが、日本古代史学者の溝口睦子氏は、『アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る』(2009 岩波新書)で、そのうちの高御産巣日神について、「日」の神であっても単純な太陽神ではなく、「北方ユーラシアに起源を持つ太陽神は、同時に天帝でもあり、またときには日月とも言い換えられる、ある意味では、観念的な性格をもった神であった」と記しています。

造化の三神は、セットで語られる神々ですから、それらの性質を示す構造は等しいものと考えるのが自然です。高御産巣日神の性質を考えると、天之御中主神は人が中心と思うすべてを体現した神であると考えられます。決して、単に中心という抽象概念を神化しただけの中国的な(=中国思想の影響を受けた)観念の神ではないのです。

中心は多様です。それは、人によって中心として認識するものが多様だからです。人は中心という概念を共通認識としてもっていても、それを具体として認識する段で様々に多様化してしまいます。北方ユーラシアの人々は騎馬遊牧民であり、常に移動し様々な部族と交流する中で、ただ単純に抽象を表象するのみでなく、抽象の表象であるとともに複数の具体を同時に、あるいは同じ抽象概念を持つ具体間を自由に往復するようなトランスペアレントな非常に高度な抽象化の智慧を手に入れたのだと思います。

日本は騎馬遊牧民ではありませんが、当時の日本はユーラシア大陸の終着地として様々なルーツを持つ諸民族が日本人として融合していく過程にありました。移動を伴わなくても文化背景を異にする人々とコミュニケーションする機会に溢れていたはずです。移動という手段を経ずしても、多様を多様のままに抽象化し、抽象と具体とを、また同じ抽象の異なる具体間を自由に行き来する神概念が根を下ろすに相応しい状況だったと思われます。

こうして、幾何的に対称性の基点となるところ、あるいは最もエネルギーの高いもの、もっとも目立つもののどれかでもあり全てでもある天之御中主神を最初の神として語る『古事記』が、日本の神話として紡がれたのだと思います。

 

天之御中主神が一度しか登場しない理由
天之御中主神は、一度神名が出てくる切りあとには全く登場しません。また、天之御中主神は、『古事記』に登場する他は、『日本書紀』に註釈的に一書に出てくる他、他の史書にもほとんど登場してきません。そのため、これまでは重要性のない神とされ、研究者の注意を引くことはありませんでした。

これは、これまでの『古事記』研究が、主に国文学者や歴史学者の研究対象であったことの負の側面だといえるでしょう。国文学者は書かれていないことを研究対象にはできませんし、歴史学者も文献に出てこないことを研究対象にはできません。

ですが、『古事記』そのものを研究対象にする場合、一番最初に登場する神を重要でないとスルーしてしまうことはできません。重要な神が最初の一度だけしか出てこないのはなぜかという問いを立てるのが、論理的な読み方の第一歩になります。

重要なのに一度しか出てこないのは、一度で十分語り尽くされているだとも考えられます。「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神」から天之御中主神の重要性が読み取れないのは、十分に読めていないのだと仮定することもできるのです。

 

天之御中主神は宇宙を創造した最高神ではない

もちろん、だからといって、書かれてもいない情報を付加してしまっては、それは『古事記』解釈を逸脱した『古事記』題材の二次創作になってしまいます。あくまで、原文のみから読み取れるものの可能性を追求していく態度が重要です。

例えば、平田篤胤は、天之御中主神を宇宙を創造した最高神であるとしましたが、これは篤胤が天之御中主神キリスト教の神に重ね合わせたものであることが明らかになっています。篤胤は当時禁止されていたキリスト教を研究し、その研究過程を『本教外篇』に残していますが、そこに書かれた記述を証拠として、篤胤が天之御中主神キリスト教の神になぞらえて宇宙を創造した最高神であるとしたことが指摘されています(*3)。

キリスト教を参考にしたとしても、天之御中主神キリスト教の神と同様の性質を持っていたのなら、問題はありません。ですが、『古事記』に即す限り、篤胤の解釈には無理があります。

『聖書』には神に関する記述が何度も出てきます。一方、『古事記』には天之御中主神の記述が一度しか出てきません。

古事記』には、宇宙を創造した最高神としての記述がないのですから、天之御中主神を宇宙を創造した最高神であるとすることはできません。

最高神としての振る舞いのない最高神というのは定義矛盾ですし、最高神として振る舞ったのにそのことは書かれていないのだと主張することは、『古事記』を不完全な書物として冒涜する主張です。

そもそも本居宣長は漢意(からごころ)を排すとして、『古事記』の解釈に中華思想を以てすることを批判しましたが、漢意の代わりにキリスト教の神のキャラクターを拝借して『古事記』を解釈してしまっては、よりいっそう『古事記』の世界観から離れてしまいます。天之御中主神を宇宙の主宰神あるいは最高神とする解釈は、天之御中主神の神聖性を損ね、『古事記』の世界観をも損なうものだと言わざるを得ないのです。

 

■人の誕生の予言

では、「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神」から読み取ることのできる天之御中主神の重要性とはなんでしょうか。

それは人の誕生の予言といえるでしょう。

 天之御中主神が表象するのは、天の中心となりうる様々な天体や場所、概念のどれかかもしれないし、どれでもないかもしれません。また、そのどちらもなのかもしれません。

 天之御中主神が表象するのは、幾何的に対称性の基点となるところ、あるいは最もエネルギーの高いもの、もっとも目立つもののどれかでもあり、また全てでもあるというものでした。天之御中主神が表象する要素はとても相対的なものなのです。このことから、天之御中主神を理解するために重要なのは、要素の側ではないことがわかります。

重要なのは、天之御中主神が中心をあらわす神であるということ、そのこと自体なのです。

中心は、観察者がいなければ中心として認識されません。観察者なくしては中心は中心として存在できません。

天空に、星々の凝集する一点があったとしても、不動の一点があったとしても、ひときわ輝く恒星があったとしても、観察者がいなければ、それは単にその状態があるに過ぎません。つまり、中心の誕生とは、観察者つまり外部の目線が誕生したということと同義だということであり、それこそが天之御中主神の重要性です。

具体的な記述に着目して『古事記』にはヒトの誕生が書かれていないと言われることがありますが、天之御中主神の神名は、ヒトの誕生の約束でもあるのです。『古事記』の一番最初の神は、誕生とともにヒトとありました。『聖書』の神のように、孤高にして孤独な神ではないのです。

平田篤胤の意に反して、天之御中主神は『聖書』のGODとは性質を異にする神なのです。

 

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■図2.中心と観察者

 

■不在の在という構造

一方、天之御中主神を通して『古事記』と『聖書』の類似点を見ることもできます。

それは不在の在とも呼ぶべきものです。

天之御中主神は、上述のように未だ創造されぬヒトの視線とともにあったことが明らかになりました。これを文章上のレトリックと理解してしまっては、『古事記』を聖典として理解することにはなりません。『古事記』は、日本最古の文学と称されますが、神々の物語は単に文学の枠内に留まるものではありません。聖典としての読まれ方をしなければ、読み取れない事柄があるのです。

『聖書』の有名な惹句に「初めにことばありき」があります。新共同訳聖書では、「初めに言(ことば)があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は初めに神とともにあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」(ヨハネによる福音書1.1-4)という文章で記されています。

『聖書』の神は、人を創造する前に「人の光」とともにあったのだと書かれています。不在の在です。「言」を「視線」に置き換えれば、「ヨハネによる福音書1.1-4」は、高天原の部分を除き「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神」の現代語訳だと言っていいほどそっくりです。天之御中主神の名が示す、ヒトがいないのに視線があったということは、「初めにことばありき」とまったくの同一構造です。
古事記』を聖典として読めば、意味がカタチに先行していることは矛盾になりません。

 

■「中心」と「視線」はセット

旧約聖書』の記述では、アダムとイブは、禁断の木の実を食べることによって「視線」を獲得します。創世記第2章には、「女がその木を見ると、それは食べるによく、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、二人の目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。」(創世記3.6-7)とあります。

禁断の木の実のなる樹はエデンの園の中心にあります。『聖書』でも『古事記』でも「中心」と「視線」はセットなのです。

 

高天原が示すもの

そして『古事記』は、『聖書』にはない「高天原」によって、その構造をさらに展開させていきます。「高天原」は『聖書』はもちろんのこと『日本書紀』にも登場しません。『古事記』オリジナルのコスモロジーは、「高天原」によって展開していくのです。(つづく)

 

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異貌の古事記

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*1:福岡県宗像市の摩利支神社では摩利支天との習合も見られます。摩利支天はインド由来の陽炎の神さまで仏教にも取り入れられています。

*2:真部分集合とは - 数学用語集|数学能力検定 TOMACw

*3:『異貌の古事記』p.101