日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第四回 天地、自らの意志(「天地初発」論②)

 『古事記』と『日本書紀』は、物語の構造が大きく異なっています。

そのことは、「天地初発」と「天地開闢」の天地の違いに端的に表れています。

この構造の違いを意識することによってはじめて、「天地初発」が表現しているものは何なのかが明らかになります。

 

■「天地開闢」は陰陽思想の題材

 『日本書紀』の書き出しは、「いにしえに天地(あめつち)いまだ別れず、陰陽分かれざりしとき(古天地未剖、陰陽不剖)」(=「昔、天地がまだ別れず、陰陽も分かれていないとき」)でした。

 最初の文字は「古(いにしえ)」です。これから始まる物語は今から見て昔の話ですよという明示です。つまり、書き手は読み手に現在の天地を念頭にそれが昔はどうだったのかを想像することを求めています。今は天地としてこのようにそれぞれあるけれど、いにしえの時代はそれがまだ分かれていなくて、陰陽もわかれていないとき…という書きぶりから、『日本書紀』の書き手は、今(=書き手にとっての今)ある天地の向こうにいにしえの天地を見ていることがわかります。

 このように書くことで、書き手は読み手に、陰陽が分かれていないころは天地も分かれていなかったのだな、と陰陽が天地の法則をも貫く原理であることを示しているのです。

 

■「天地初発」は読み手を物語の現場に放り込む

 これに対し『古事記』は、いきなり「天地初発之時」と書き出します。全く何の情報も与えないままに「天地」が登場するのです。読み手は、冒頭から『古事記』の物語の中に放り込まれるのです。読み手に取って「天地初発」の天地は、それがどのような状態のものだかわかりません。どのようにして今(=読み手にとっての今)の天地につながっていくのか、読み手は推理小説を読む時のように書き手にしたがって次の展開を追っていくしかありません。

  このようにナラトロジー(物語理論)的に全く異なる構造を持つ『古事記』と『日本書紀』とを一緒にしてしまった「記紀神話」には、やはり無理があったと言わざるを得ません。

 

■日本語に書き下す試み

 それでは、『古事記』の展開に沿って「天地初発」の天地がどのようなものだったのかを見ていきましょう。「天地初発」の時をどのような書き下し文にするべきでしょうか。

 実は「天地初発」には、現在に至るまでどう書き下すかの定説がありません。西郷信綱氏は、古来からの読み方は次の3つであると整理しています*1

1.アメツチハジメノトキ(宣長古事記伝』他)

2.アメツチハジメテヒラケシトキ(西郷はこの読みを採用。他に岩波文庫など)

3.アメツチハジメテオコリシトキ

 一方、神野志隆光氏と山口佳紀氏とは、1~3間のこれまでの学会での議論を踏まえた上で、そのどれもが適切でないとして、

4.アメツチハジメテアラハレシトキ

という読み方を主張しています*2

 1は初発をセットにしてハジメと訓読していますが『古事記』の用字法では「初」はハジメテと読み「発」は動詞として読むべきであるから1は適切でないこと、2は開闢に引きずられた読み方で不適切であること、3はオコルが主語に取るのはコトであってモノではないからコトではない天地がオコルというのは日本語として不自然であることをそれぞれの棄却理由として挙げています。

 このように、これまでのすべての読みが否定されるので、新しい「発」の読み方が求められます。もちろん「新しい」といっても『古事記』の時代に読まれた読み方でなければなりません。両氏は、あり得る候補のうち、1~3を除く消去法で、アラハル・アラハスという読みが残るといいます。そこで、「発」をアラハルと読むのが適切であるという主張したのが4の書き下し文です。

 

 確かに両氏の議論は説得力があります。しかし私は、この4の読み方もなお適切ではないと思っています。即ち、1~4のどれも「天地初発」の天地の状態についての解釈として適切ではないと考えています。

 

 ■天地は二度も三度もあらわれない

 4の読み方の問題点は2つあります。

 1番目の問題は、「初」と「発」との折り合いの悪さです。4の「アメツチハジメテアラハレシトキ」の訳では、読み手が二回目三回目の「アメツチアラハレシトキ」の可能性を想像してしまうことを避けることができません。その後に続く『古事記』の物語で、天地が二度三度と発(あらは)れることがない以上、初発の「発」をアラハルと読むことには難があると言わざるを得ません。

 「発」をアラハルと読むしかないとすれば、今度は「初」がその所在を失ってしまいます。仮に「初」が無く、「アメツチアラハレシトキ」であれば、読み手が二回目三回目の「アメツチアラハレシトキ」の可能性を想像してしまうこともないからです。

 「発(あらは)れる」は、「初」があることによって、「あらわれ」ては「消え」また「あらわれ」ては「消え」る可能性を読み手に想起させてしまうのです。

 『古事記』の冒頭233文字は、これ以上ないくらいに大変簡潔に書かれています。したがって、無駄な文字は一文字もないと考えるのが自然です。「天地初発之時」をむしろ「天地発之時」とした方が誤解がないような「発」の読みは自然ではありません。

 恐らく、本居宣長はそのことを十分に意識していたのでしょう。だからこそ、初発をセットにしてハジメと訓読することを主張したのだと思います。しかしながら、神野志・山口両氏は『古事記』の用字法の子細な分析から宣長の訓読を棄却しました。そうであれば、「初」と矛盾しない「発」の読み方を求めなければなりません。

 

 ■初発の主体は天地

  2番目の問題は、『古事記』の記述スタイルとの不整合です。前述のとおり、ナラトロジー(物語理論)で言えば、『古事記』には絶対者としての語り手(書き手)がいません。

 「発(あらは)れる」は、描写の動詞です。「Aがあらわれる」とは、あらわれるAの様を認知した者が、その認知したものを描写する表現です。即ち、4の「発(あらは)れし時に」の主体は、「天地初発之時」を認識する者であるということになります。

 ところが、物語上、そのような認識者を設定することは適切ではありません。『古事記』では天地の創造者は存在しません。「天地初発」は「天地創造」ではないのです。

 したがって、「天地」以外に何物も存在しない状況の描写で、主体を「天地」以外に想定できてしまう訳は適切ではありません。「初発」は「天地」を主体とした動作として読む以外にないのです。

 

 このように見てくれば、「初発」の「発」は「発(あらは)す」が適切だということがわかります。そもそも神野志・山口両氏は、最終候補にアラハル・アラハスの両方を挙げています。『古事記』の用字法の面からも、アラハスの採用に問題はありません。また、「発(あらは)す」であれば、それが二度三度となるかどうかは主体の決断であって読み手の期待とは無関係ですから「発」と「初」とは矛盾しません。

5.アメツチハジメテアラハシシトキ

が、「天地初発」の最も適切な書き下し文なのです。

 

■天地が意思を持つということ

  天地(あめつち)初めて発(あらは)しし時(アメツチハジメテアラハシシトキ)とは、天地が自らの意思で自らが天地であることをあらわした時という意味です。

 あくまでもロジックにこだわって「天地初発」の読み方を探求してきた結果、意志を持つ天地という結果が導出されてしまいました。

 このような荒唐無稽にも思える解釈を『古事記』に適用することは、適切なのでしょうか。それが、それほど無理筋な解釈でもないことが、最近の研究から言えるのです。

 

上野誠氏は、『日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)』の中で、鉄野昌宏氏の研究を紹介して、持統天皇(在位690-697年)の御製歌である

 

 春過ぎて 夏来(きた)るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山(巻一の二八)

 

は、少なくとも中世においては「春が過ぎて、夏がやって来たらしい。真っ白な衣を干している、天の香具山が」と解釈されてきたことを明らかにし、通説である「真っ白な衣を干している、天の香具山を見ると/真っ白な衣を干している、天の香具山に」ではなく、中世の解釈に戻るべきだという鉄野氏の説に賛同しています。

 

 上野氏は、香具山が衣を干すというのは、古代の思考では自然なことであるとし、『万葉集』には山や雲や港などヒトではないモノに神性人格がある例は枚挙にいとまがないと指摘しています。

 そして更に、モノに人格がある歌については中国文学の影響を受けた擬人法であるという説があるけれども、これは誤りであるとして前掲書で詳細な解説を行っています。香具山の例で言えば、人を山に投射したのではなく、山が人に投射されているのが古代の日本の思考だというのです。

 具体例として上野氏が挙げた天智天皇(在位668-671年)の皇太子時代の歌とその解説を紹介します。

 

 香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争いき 神代より かくにあるらし 古(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(前掲書では妻)を 争ふらしき(巻一の一三)

 

 香具山は畝傍山を横取りされるのが惜しいと耳成山を争った 神代からこうなので いにしえもそうだった 今の世も妻を争うらしい(上野氏による解説)

 

この上野氏の解説ですと、香具山は男性のように思えるのですが、万葉学者の中西進氏は『万葉集(全訳注原文付)』(講談社文庫)で上記の歌を次のように解説しています。

 

 香具山(女)は新たに現れた畝傍山(男)に心移りして古い恋仲の耳成山(男)と争った。神代からこうであるらしい。昔もそうだからこそ、現実にも、愛する者を争うらしい。(上掲書p.55)

 

 妻は女性ですが、嬬(つ・ま)は配偶者を指す言葉で夫も含まれます。香具山の性別については学者の間で決着がついていませんが、どちらにせよ『万葉集』では、擬人法ではなく、山は衣を干したり恋人を争ったりする存在として謡われているのです。

 

 『古事記』の完成は712年ですから、上記の歌が詠まれたのはいずれもほぼ同時代です。

 神野志・山口両氏は、「発」の読みの最終候補であったアラハル・アラハスから、アラハスを解説なく棄却しアラハルを採用しましたが、天地(あめつち)がアラハル(発る)という解釈は、天地を情景と捉える近代以降の合理主義的発想の『古事記』への適用と言えるのではないでしょうか。これは、目の前の天地を念頭に始原の天地を想像する「天地開闢」に通じてしまう見方です。日本古来の思考法に沿ってみれば、「天地初発」は、天地が自らの主体的な意志で天地としての存在をあらわしたと解釈する方が自然なのです。

 

 このように、天地初発の天地は意志を持って行動する主体であることが明らかになりましたが、ではなぜ天地は神とされていないのでしょうか。

 結論から言ってしまえば、神は人を必要とする存在であり、天地は人を必ずしも必要とする存在ではないからだと考えます。その根拠は天之御中主神の存在です。『古事記』は、まるで推理小説のように、謎はあとからあらわれる事柄によって解決されていくように記述されています。

 

物語の構造――〈語り〉の理論とテクスト分析 (岩波オンデマンドブックス)

物語の構造――〈語り〉の理論とテクスト分析 (岩波オンデマンドブックス)

 
万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)

万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)