日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第一回 ロジックで読む古事記(序論)

 『古事記』の世界観は冒頭部分に示され、それは僅か233文字*1の漢字で書き表されています。簡潔だからと言って俳句のように読み手のイマジネーションを喚起するような書き方がなされているわけではありません。簡潔を極めたその文体は、むしろ文学的な読解を受け付けません。

 明確に構造化されたその記述は、その構造を読むことでしか内容に迫ることができないように思います。

 

■『古事記』冒頭233文字を解析する

 『古事記』に最初に登場する神である天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)からイザナギイザナミに至まで全部で十五もの神々が登場するのですが、それらはたった233文字で記述されています。この233文字のうち神々の名前は102文字ですから残りは131文字です。いかにコンパクトな記述かがわかります。

 これを文学を読むように読むのには無理があります。故に、この冒頭文の解析は、宣長古事記伝』以来あまり手がけられてきませんでした。ほとんどの解説が現代語訳を含めて原文の書き下し文に神名の註釈をつけた程度です*2

 神話の冒頭は世界観の提示です。『古事記』の最も重要と言って良い部分が、これまで十分に研究されてこなかったのです。

 その理由は「日本原神話」の仮定にあります。記紀を一つの日本原神話の異なるバージョンと仮定した虚構ゆえに、『古事記』の世界観は『日本書記』の世界観と同一とみられ、文学として読みやすい日本書紀の記述が、そのまま『古事記』の世界創生譚として採用されてきたのでした。

 

 古事記の冒頭の233文字について、神名を太字で表すと次のようになります。

天地初発之時於高天原成神名天之御中主神高御産巣日神神産巣日神 此三柱神者並独神成坐而隠身也次国稚如浮脂而久羅下那州多陀用弊流之時如葦牙因萌騰之物而成神名宇摩志阿斯可備比古遅神天之常立神此二柱神亦独神成坐而隠身也 

上件五柱神者別天神

次成神名国之常立神豊雲野神此二柱神亦独神成坐而隠身也次成神名宇比地邇神次妹須比智邇神角杙神次妹活杙神意富斗能地神次妹大斗乃辨神 次於母陀流神次妹阿夜訶志古泥神伊邪那岐神次妹伊邪那美神上件自国之常立神以下伊邪那美神以前并称神世七代

 改行箇所は、真福寺本『古事記』にあわせてあります。『古事記』は原本が見つかっていません。真福寺本は最古の写本で、宣長が『古事記伝』執筆の際に校合に利用したものでもあります。

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図1.真福寺本『古事記』[画像:国立国会図書館デジタルコレクション 国宝真福寺本 上]

■文学的な読み方

 『古事記』は、日本最古の文学とも日本最古の歴史書とも言われます。日本の成り立ちを含む神々の奇想天外な活躍ぶりにはじまり、天皇家の歴史ダイジェストに至る全三巻の大著です。

 本居宣長はこのすべてに詳細な註釈を付け、それまで『日本書紀』の影に隠れて重要視されていなかった『古事記』にスポットライトを当てることに成功します。

 宣長は『古事記』の価値の発見者であり、中興の祖でありました。そして宣長が大成した学問(宣長は、契沖にはじまる国学の完成者とも言われています)は、戦後の国文学へと引き継がれていきます。

 

 古事記は日本最古の文学とも言われます。当然に文学として読むことができます。ですが、文学として読むことは、文学の制約を受けることでもあります。

 小説の例で説明しますと、例えば、シャーロックホームズの相棒がなぜワトソンなのかは、一般には問われません。作者のコナン・ドイルがそう設定したからです。

 このように、神々を文学の登場人物と同じように読んでしまえば、天之常立神(あめのとこたちの神)の次に国之常立神(くにのとこたちのかみ)が登場するのはなぜなのかを問うことは無意味化します。

 これを問うような読み方もあります。古事記の成立過程や古事記以外の文献などに目を向けて、天之常立神(あめのとこたちの神)の次に国之常立神(くにのとこたちのかみ)が配置されていることの理由付けを考えるのです。前者を作品論的な読み方、後者を作家論的な読み方と言うことがあります。古事記は小説ではないため、編纂者はいても作家はいないことになっています。そのため、作家論的な読み方は、編纂される前の資料に拡散していくことになります。それは、文学を超えて歴史学や考古学に近づいていくことになります。

 

■歴史書としての読み方

 『古事記』は長らく「記紀神話」の枠組みで読まれてきました。「記紀神話」というのは、『古事記』も『日本書紀』も同じ日本の原神話から派生したものであり、相互参照して読むべきだというものです。

 これは、テキストを不完全なものとして、作者の承認なしに他のテキストからの補完を推奨する読み方ですから、本来はあってはならない読み方のはずです。後世の人が、村上春樹万城目学は同時代人で同じように荒唐無稽な話だから『1Q84』と『鴨川ホルモー』は相互補完的に読むべきだと主張して、そのように読んでしまうようなものです。極端な例だと思われるかもしれませんが、冒頭部分に限っては、『古事記』と『日本書紀』では大きく内容が異なります。これについては回をあらためて解説します。

 

 別の書物である『古事記』と『日本書紀』ですが、どちらも歴史書の役割を担っていますから、歴史はひとつだとの思いから、このような相互補完的な読まれ方が推奨されてきた経緯があります。しかしながら、『古事記』も『日本書紀』も、歴史部分だけで構成されているわけではありません。歴史の前に神話部分が書かれています。

 特に、この神話部分は相互補完的に読んでしまうとおかしなことになります。例えば、タカミムスヒなど、その様々な文献にも登場する神々が多くあります。これをできるだけ多くの文献にあたって総合的にタカミムスヒの性格を解釈するような読み方では、タカミムスヒ研究であっても『古事記』研究ではありません。

 言ってみれば、TVのエヴァンゲリオンのシンジ君と劇場版エヴァンゲリオンのシンジ君とヱヴァンゲリヲン新劇場版のシンジ君とを総合的に解釈するようなもので、そのようなシンジ君論は、それぞれの作品のシンジ君の理解を却って混乱させるだけです。

 このような神解釈を、順番に数珠つなぎにしても『古事記』の理解にはなりません。これが「記紀神話」に代表される相互補完的な読み方の弱点です。

 もっとも、最近では、少なくとも『古事記』も『日本書紀』の神話部分について、このように相互補完的に読む読み方は、学術的には評価されないようになってきているようです。

 

■二次創作的な読み方

 実は、原文を逸脱して読む読み方は相互補完的な読み方にとどまりません。そして、『古事記』の行間を想像たくましく読む読み方は、日本の伝統的な『古事記』読解方であったことが、斎藤英喜氏の研究であきらかになっています*3。例えば、平田篤胤の説く『古事記』は、もはや『古事記』を下敷きにした平田ワールドと言ってもよいような内容です。

 また、宗教者においては、授かった神託(お告げ)を『古事記』のテキストより上位におきますから、その解釈はどうしても二次創作となりがちです。 

 こういった多様な読み方の存在は、『古事記』の世界を豊かにし、そして人々に身近にしてきましたが、一方で『古事記』そのものの世界観から人々の目を離させてゆくマイナスの効果も生んできました。

 

■ロジックを可能な限り突き詰めて読む

 本稿は、『古事記』を一つの作品として作品そのものから逸脱せず読むことにこだわります。そして、その構造にこだわっていくことで、天之常立神(あめのとこたちの神)の次に国之常立神(くにのとこたちのかみ)が登場するのはなぜなのかというような疑問へも回答していきます。

 学問としての古事記読解の蓄積を踏まえた上で、その先をロジックで突き詰めるだけ突き詰めて解釈してみるというのが、この私家版古事記伝の方法論です。ロジックというのは納得のための道具ですから、たくさんのロジックの存在を否定しません。この私家版古事記伝の他にも、別の私家版古事記伝が併存してもかまわないと思っています。

 240年目の古事記伝は、『古事記』を単一の神話として、どこまでもロジカルに読んでいくことによって、『古事記』が内包してきた世界の可能性を現代に展開していくことを狙います。

 

古事記と日本書紀 (講談社現代新書)

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玉勝間〈上〉 (岩波文庫)

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玉勝間〈下〉 (岩波文庫)

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*1:註釈部分の文字数はカウントしていません

*2:一般向けの著名な文学者による比較的詳しい解説は、西郷信綱氏の『古事記注釈』(ちくま学芸文庫)と神野志隆光氏の『古事記とはなにか』(講談社学術文庫)くらいです

*3:『異貌の古事記』2014年・青土社