日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

240年目の古事記伝 第一回 私家版古事記伝(序論①)

 インターネットや人工知能など最先端の技術は西欧的な知性と不可分で世界を席巻しています。一方、中国は巨大な市場と労働力という物量でマーケットという世界地図を塗り替えようとしています。その狭間で日本は世界に発信できるようなグランド・デザインを描けずにズルズルと足場を後退させているように見えます。

 欧米も中国も近代の次の時代を用意しようとしています。折しも今年は明治150年。西欧近代を接ぎ木して繁栄してきた近代日本ですが、近代の次の時代も接ぎ木で対応しようとしても、接ぎ木の接ぎ木では更なる繁栄はおぼつきません。老木に新しい芽吹きの可能性はあるのか。初心に返り、西欧の近代を日本の土壌で追体験することで、日本らしい次の時代を考えたい。

 ひとつの試みとして、カルヴァンが行った『聖書』読解の革新を、テキストを『古事記』に変えたら何があらわれるのか、宗教の枠組みではなく純粋に読解の問題として、西欧のパラレルワールド=日本で近代を追体験することはできるか、チャレンジしてみたいと思います。

 240年目に書く新しい『古事記伝

 今年2018年は、干支で言うと戊戌(つちのえいぬ)。ちょうど240年前の戊戌の年はに本居宣長は『古事記伝』を世にあらわしました。「伝」というのは古典の註釈という意味で、古事記伝とは『古事記』の註釈のことを意味します。

 そんな節目の年に、私も私なりの古事記伝を書いてみたいと思っています。

 

インターネットもAIもベースは西欧的な知性

 古事記は日本の神話ですが、今の日本に何らかヒントを与えてくれるような書物としては読まれていません。生きた神話ではなく神話の化石になっています。化石と言って言い過ぎなら、神話の冷凍保存です。

 

 少なくとも、GoogleのAI部門のトップがシンギュラリティ(AIやナノテクノロジー、生命工学などの技術の進歩により、現在とは非連続な社会が到来する)を語った書物(ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき)が教会での思い出から書き始められていたり、今では当たり前になったネットサーフィン(既に死語?)を可能にしたWebの発明者が、自身の受けた宗教の影響とWebとの関係についてエッセイ(Tim Berners-Lee: WWW and UU and I)を書いたりするような距離感では、古事記は我々にインスピレーションを与えてくれません。

 

 いやいや、もしレイ・カーツワイルが日本人だったらシンギュラリティの本の書き出しはお宮参りの思い出だったかもしれないし、ティム・バーナーズ・リーだって聖書の記述から直接ヒントを得てWWWを発明したわけじゃないぜと言うかもしれません。

 

 では、なぜ画期的なIT産業のコンセプトは欧米からばかり出てくるのでしょう。かつて政府機関や大企業の研究所に独占されていたコンピューターが、個人の解放の道具として再定義され、パーソナルコンピュータやインターネットを生む原動力となった背景に南米で活躍したもと神父のイヴァン・イリイチの思想(コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫))があったのも、ただの偶然だったと言い切れるでしょうか。

 

凄いのは宗教ではなく聖典の読み方の方法論

 キリスト教が凄いんじゃないか。そう思う人もいるかも知れません。ただ私は、そこまでは言い切れないと思っています。イリイチバチカンに破門された神父ですし、レイだってティムだってそれほど熱心なクリスチャンとは思えません。

 凄いのは、聖典の読み方の方法論が文化的な蓄積になっていることだと私は考えています。私はクリスチャンではありませんが、キリスト教系の私立大学で学び、そこでハーバード(日本ではあまり話題になることはありませんが、ハーバードはピューリタンの指導者を育成する目的で設立されたキリスト教系の私立大学です)をはじめとする米国で教育を受けた先生方の思考態度に接し、必須の一般教養科目では聖書講読の授業も受けました。必須の授業はあまり真面目に受講しなかったので、その時は気づかなかったのですが、後年仕事でシリコンバレーベンチャー企業に出向し、ビジョナリーと呼ばれる人たちの思考を間近に見て、荒唐無稽な聖書の神話を無意識に生真面目に読むことが思考の鍛錬になっていることを確信しました。

 

ありえないことがらにも徹底して論理を追求

 聖書というのは、ほとんどがありえない話ばかり書いてあります。これを読む態度は大きく3つに分かれます。

ひとつは鵜呑みにする方法。神は7日で世界を創造したんだ、すげーというような読み方です。

もう一つは部分的に読む方法。いい話や怖い話しを物語りとして受容したり、理解しやすいところだけを拾い読みする読み方です。例えば結婚式でよく引用されるコリント人への第一の手紙から「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」のところをピックアップして、そうだそうだと同意するないしは人生の指針にするような読み方です。

3つめは、疑問を突き詰める読み方です。はじめに言葉ありき。えっこれどういうことと考え抜く読み方です。もちろん答えはありません。が、人間の脳というのは不思議なもので、一度考え出すと他のことに気を取られていても自分なりに納得するまでそのことを考え続けます。考えていた問題の解をトイレで突然思いつくことがあるのはこのためです。ありえない話を納得いく解釈に落とすまで考え続けることは、脳みそにとって大リーグボール養成ギブスを付けたまま夕飯を食べたりの日常生活を送る星飛雄馬と同じです。考えていない時間に高負荷でありえないことがらに論理を追求しているのですから、とっぴな発想が浮かぶ脳みそが出来上がるのも不思議ではありません。

そしてこの3番目の読み方こそが、宗教改革の精神に照らし合わせて最も伝統的な聖書の読み方と言えます(※註)。私は、これを聖典の読み方と呼ぶことにします。

 

 ただし、限界もあると思います。聖書の記述が知らず知らずのうちに発想のクセになってしまうことはあると思います。だからこそ、思考の鍛錬が聖書の枠組みから比較的自由なあまり熱心でないクリスチャンの方が、より画期的は発明をすることができるのかもしれません。

 

戦後の成功の方程式が通用しない時代

 周知のように、戦後の日本は追いつき追い越せで発展してきました。海外のお手本を学びより良くブラッシュアップし付加価値を付けることで日本製品は市場を席巻してきました。

 ところが今やネットワークの時代です。テレビや自動車さえもインターネットに接続されることが当たり前になりつつあり、個人が所有する機械はクラウドに接続する入れ物に近づいています。プラットフォームの競争の時代を迎えているのです。

 ネットワーク社会は、分断された個を前提とした近代社会とは様相を異にしています。欧米の知の先端は、ビジネスの世界もアカデミズムもエンターテインメントも近代を乗り越える準備に血眼です。

 日本がその最先端に並ぶには、お手本を学びお手本を超えるというこれまでの成功体験を捨てて、欧米と同じフロンティアに立って新しい世界を創っていく必要があります。西欧に接ぎ木することで発展してきた過去の栄光を懐かしみ、その起点であった明治維新に立ち返っても、何も新しいプラットフォームを生み出すことはできないでしょう。

 

もう一つの近代を手に入れ、二刀流で世界と闘う

 人口も右肩下がりになっていく中で、真似して超えるやり方は、市場人口ともに圧倒的なボリュームを持つ中国のお家芸に取って代わられています。同じやり方では日本は中国についていくことすら難しくなっていくでしょう。

 接ぎ木の時代はもう終わりにして、西欧が体験した近代という革命を日本というフィールドで追体験する思考実験を行い、日本独自の新時代の発想を手にして、これまでに磨きをかけてきた西欧流との二刀流で、新しい時代に立ち向かって行けたら少しは未来に希望が出てくるのではないでしょうか。

 

 聖書に変えて『古事記』を、近代を生んだ読み方で読んだら何が現れてくるのでしょうか。例え何も現れてこなくても、これまでにない思考の鍛錬にはなるはずです。それは、借り物でない近代を、ようやく日本人が手にすることにつながるのではないでしょうか。そんな大風呂敷で、私の古事記伝を進めていきたいと思います。

 

 ※註:J.カルヴァン著『黄金の小冊子・真のキリスト教的生活

 

古事記伝 1 (岩波文庫 黄 219-6)

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ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき

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コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

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