『シン・ゴジラ』の「何かが欠けている感」と、石原さとみの役作りのリアルさについて。

★★★★

偶然にも『シン・ゴジラ』公開前の過日、とある巫女さんと会話する機会があり、あの偉大なるゴジラのテーマの作曲者である伊福部昭氏は、代々神主の家系であり、先祖をたどると大己貴命(オオナムチノミコト)に行きあたることを知りました(ちゃんと家系図に記載されているそうです)。

大己貴命のまたの名は大国主命オオクニヌシノミコト)と言います。国譲りの前のこの国の統治者です。伊福部昭氏は北海道で生まれたらしいのですが、そのお墓はご先祖様と一緒に伊福部家が護るある有名な神社の境内後手にあるそうです。ゴジラが神懸かっているのも当然なのだなあと感じ入ってしまいました。

ということで、伊福部昭氏のエピソードに導かれてユナイテッドシネマとしまえんまでカミさんと『シン・ゴジラ』を見に行ってきました。

 

http://i.gzn.jp/img/2016/04/14/shin-godzilla-trailer/snap0139.png

 

以下はネタバレを含む感想です。鑑賞前に読むと面白さを損なうと思いますので、絶対に映画を見てから読むようにしていただけると大変ありがたいです。

 

 

奇妙な映画だった。映画冒頭の巨大不明生物の登場シーンから、早くも緊張高まる演出。徹底したリアルさと、笑いを織り交ぜた緩急たくみな演者の配置。祭りによくある龍の張りぼてを思わせるユーモラスにも見える第2形態から第3形態を経て二足歩行の先にも進化があることを見せる第4形態への変化というオリジナリティー。見事すぎる。期待値以上だ、という思いの一方で、何か引っかかる。

なんだこの引っかかりは。なぜ俺はこの映画に100%没入して歓喜しないのだ?そんな思いが、映画の後半強くなる。

前半はぐうの音も出ない出来だ。特に素晴らしいのは、ニヤリ担当とリアル担当(と私が今勝手に命名しました)に分かれて絶妙に配分された俳優の演技だ。片桐はいり柄本明國村隼古田新太松尾スズキモロ師岡などのニヤリ担当がゴジラがエンターテイメント映画であることを忘れさせないコクを生み出す一方、市川実日子松尾諭高橋一生野間口徹、黒田大輔、小松利昌などのリアル担当がそのあまりの写実的なキレのある演技で現実の私を虚構の中に引きずりこむ。

驚いたのは石原さとみだ。日本語でしゃべくっているのに外来語が英語発音。大学時代にサークルで一緒だった帰国子女の才媛がまさにこのしゃべり方だった。癖のない日本語で普通に話してたのに、映画の話題になったらタイトルが急に英語発音で聞き取れなくて面食らったのを瞬時に思い出してしまった。そういえば彼女、ペンシルバニア大でドクターに行ったんだっけ。ここまで役者にリアルを徹底させてるのか。庵野監督すげーなー。と、こう思っていたのです。私は。映画館を出るまでは。

映画館を出て、一緒に映画を見た妻に、「石原さとみのしゃべり、リアルだったよねー。あそこまでセプテン(9月入学生=帰国子女のこと)しゃべり徹底させるのって凄いよね。超練習しないとあれ真似するのは無理だわー。」と言うと、妻は「そうなの?かっこつけて言ってたんじゃないんだ。私、セプテンはアジア系の友だちしかいなかったし。」と言うではありませんか。妻と私は同じ大学出身です。なのにセプテンしゃべりの思い出が共有できない。ということは、石原さとみの超絶リアルな台詞回しは、ごくごく少数の観客にしかリアルと認識されない…!?

冷静に考えたらそりゃそうだ。IMAX効果で私が虚構の世界に取り込まれていただけなのだ。任侠映画を見たばかりの観客が映画館を肩で風斬って出てくるのとおんなじだ。市川実日子の演技だって高橋一生の演技だって、人生でそういう友だちや知人に会っていなかったら、ただのオーバーな演技として受けとめられているかも。でもそんな知り合いがいる方がどう考えても少数派だ。では、このリアルさの追求には何の目的があるのか???

引っかかりの話しに戻ります。

私が引っかかったのは、これだけ徹底された映画なのに、足りないところがある、そのアンバランスさにあるのではないかと映画の後半に観ながら思い至りました。足りないものの第一は、経済です。現代の日本を描くには、政治以上に経済でしょう。株価の暴落によるパニックシーンが、無視されているのではなく、台詞ひとことですませている。第二に非合理性の描写です。あんな化けモノが出てきたら、たぶん宗教が復活する。加持祈祷や人々の非合理的な行動が、これも無視されているのではなく、廃墟への合掌シーンひとつですませている。これらは、無視ではないのだから、敢えての軽視ということでしょう。つまり、ゴジラに蹂躙される人々の場面が、それへ直接対処する仕事の現場以外にないのです。ということは、庵野監督が描きたかったのは、ゴジラに蹂躙される人々の混乱の全体像ではない…?

さらに、もうひとつ足りないと思ったのは、危機回避の際の困難さの描写です。海から出てきて沿岸の街を壊滅的に破壊し微量の放射能を撒き散らすゴジラは明らかに311をなぞっています。そして、ゴジラの被害を食い止める手段が核反応を冷却して凍結することだというのはフクシマを意識しているはずです。ところが、ヤマオリ作戦は、実行されると、なんとも易々と成功します。ヤマオリ作戦は、現実のフクシマをなぞってはいない。

このため、通常の映画であれば、最後に観客に与えられるはずの映画的カタルシスがシン・ゴジラにはありません。えっ何?クスリごっくんで解決?映画もう終わり?「現実対虚構」?意味わっかんねー。これが、私のエンドロールを見たときのそのままの感想でした。

しかし、今は違います。シン・ゴジラのリアリティーの追求は、問題に直接対応する私たち個々の行動にのみ向けられていることに気がついたからです。マクロな動きである経済や内面の揺れの表象である宗教性は削ぎ落とされています。

庵野監督は、ヱヴァ新作制作の行き詰まりを打開するためにシン・ゴジラの総監督を引き受けたと言っています。リアル担当演者たちの執拗なリアルさの体現は、観客に伝わる伝わらないに関わらず、リアルでなければ「現実」を「虚構」に載せられなかったのだと思います。石原さとみのリアルさは、シン・ゴジラそのものに捧げられていたんだ!

虚構の世界のヤマオリ作戦は、現実のフクシマと違って、理想的なかたちで作戦を終えます。それでも、根本解決にはなっていません。ゴジラは、凍結されているだけです。危機はいぜんとして宙づりで、保留されているだけなのです。ひるがえって私たちの現実はどうでしょう。ヤマオリのように上手くいかなかったフクシマは、なおさら根本解決には遠い状態です。フクシマだけじゃない、我々の日々の仕事はどうでしょう。311のとき、人生を変えてやるぞと思った思いは、それぞれの生活や仕事に今も継続されて活かされているでしょうか。庵野監督はヱヴァ新作の制作現場に戻ったそうです。私は、恥ずかしいかな、311直後の思いを自分の生活や仕事に生かし切れないややもすると空回りなだけの日常を続けています。

古い話ですが、WW1後の混迷したドイツでは、青年達は、事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、教師のかわりに指導者を欲したそうです。それに対し、かのマックスウェーバーは、そんなものを自分に望むのはおかど違いであるとし、世間にあふれるそのような風潮は鍛えられるべき弱さだという批判をこめて、「日々のザッヘ(仕事)に帰れ」と叱咤したそうです。

シン・ゴジラのキャッチフレーズである「現実対虚構」とは、そしてこのカタルシスのない結末は、庵野監督流の我々への「日々のザッヘ(仕事)に帰れ」というメッセージだったのではないでしょうか。

トピック「シン・ゴジラ」についてcinemascape投稿記事から一部改変して転載)

 シン・ゴジラのもう一つの主役は伊福部昭ゴジラのテーマでした。伊福部昭の音楽がゴジラから離れられないのは、きっと、我々が、日本人として、原爆・核・放射能とこの国について、逃げずに向き合い続けていかなければならないことを、ゴジラが今も求めているからなのでしょう。