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『外国人市民がもたらす異文化間リテラシー』落合知子 書評

何年かぶりに会った友人から自著の献本をいただいた。思うところあり書評を書いてみた。

 

本書は、日本に永住する意思を持った外国にルーツを持つ子供たちや大人たち「=外国人市民」の自己表出の複数の事例を通して、彼らが日本社会にもたらしうる利点とその利点が形成されるプロセスを社会学的な手法により明らかにしたものである。それを著者のPh.D.落合は、プロの筆致により、プロに向けて書いている。ここでいうプロとは、社会学や人類学あるいは心理学といったきちんと体系づけられた学問を修めた者が、それをNPONGOあるいはその他の機関で外国人市民の自己表出の手伝いに専門家として生かしている者のことを言う。

その意味で私は門外漢であり、本書のレビューには不適格者であるかもしれないが、今回縁あって本書を手に取り、以下にレビューをしたためるものである。

著者は、前述のとおり外国人市民の自己表出を手助けするプロであるのだが、その問題意識と目的意識は外国人市民を超えて深遠である。曰く「外国人市民にとどまらず、マイノリティは社会のいたるところに存在している。女性や障害者、子ども、もしくは病を得たり、失業したり、あるいは被災をしたり、そして老化したりと、人は誰もが生きている限りマイノリティとして社内と向き合う可能性をもっている。(中略)マイノリティが人との異なりをおそれなく表明できる空間を、学校に、地域に作っていくことは、マイノリティもマジョリティを含めたすべての人を生きやすくすることにつながるのではないだろか。」(p.219)と。私は著者のこの問題意識と目的意識とに大いに同意し、それを日々実践する筆者に深く畏敬の念を抱く。

だが、いや、であるがゆえに、今回本書で取り上げられた個々のフィールドの事例での取り組みが、著者の深遠な目的に対して一里塚以上のものになるかどうかの緊張関係を潜在的に内在しているのではないかという若干の危惧の念を抱いてしまったことも正直に書いておきたい。ただしもちろんその危惧は本書の価値とは無関係である。むしろ、本書の、著者による誠実さとプロとしての精緻さが、私にその緊張関係を気付かせてくれた。その意味でも、本書は「外国人市民がもたらす異文化間リテラシー」実践の現在のスタンダードでありリファレンスの書であると言えるだろう。

著者は言う。「外国人市民との共感的に対話した経験を持つ教員やボランティア、あるいは級友は、他のカテゴリーのマイノリティにもそうした対話を開いていこうとするだろう」(p.219)と。

本書のいくつかの事例では、例えばコリアやベトナムにルーツを持つ子どもたちの自己表出の手助けに、日本の子どもたちと一緒にコリアやベトナムの食文化や遊び、民族衣装や言語を体験する機会を持たせるケースが紹介されている。これらは確かに小学校の段階ではある程度有力な手段であるかもしれないが、あくまでも代用手段に過ぎないはずだ。危惧するのは、著者を除く現場のプロたちに、これらを代用手段として認識している様が感じられないことだ。

外国が日本の移し絵であっては、それは外国とは言えない。外国人市民の「外国」に無邪気に国民国家モデルを当てはめることは、「外国」を見失うことになりはしないだろうか。「外国」と「地域」とは単に政治の都合に過ぎないことは、かつてのユーゴスラビアを思い浮かべるだけで十分だろう。バスクカタルーニャ、あるいは延辺からの「外国人市民」にはその都度「地域」で対応するという大人の方便は(そんな事例は本書には無いが)、果たして外国人市民の自己表出に健全な方便と言えるだろうか。

また、こうした国民国家的外国は、濃縮果汁還元的な「外国」、つまり社会学的に言えば、ギデンスの言う「再帰的」なものであり、リアルな「外国」ではないがゆえに、「外国人市民」は永久に「本国人市民」に追いつかないという構造を内包してしまう。古文をいくら勉強しても永遠に平安人にはなれないのと同じ構造である。そのため、国民国家的な「外国」によって自己表出を可能にした「外国人市民」は、その代償として(再帰的であるがゆえに現実には)ありもしない「本国人市民」への「憧れ」や「劣等感」や「同一視」をその心に埋め込んでしまうリスクが高いと思う。

いささか古い例で恐縮だが、『バケツでごはん』という1990年代の玖保キリコの漫画がある。とある動物園の動物たちを擬人化して書いた漫画で、動物園の動物たちはエンターテイナーとして人間が喜ぶ動物らしさを演ずることを生業とする職業人であるという舞台設定がなされている。主人公はギンペーという名のペンギンで、関西弁を話す。第5話で、ギンペーは、見学に来た大阪出身のアシカに自身の関西弁がなんちゃって関西弁であることを見抜かれ、「東京もんはそんなんでだませても、大阪もんにはそうはいかんで。めっちゃ最低や。そんなインチキが大阪弁やと思われたらかなわんわ。」と指摘される。実はギンペーの親は転勤族であり、そのためにギンペーはネイティブランゲージとしての特定の方言を持たない、大阪弁の影響が強いものの巡業先のあちこちの言葉が混ざった独特の言葉を話すペンギンとなったのであった。ギンペーは、翌日から無理に共通語を使おうと試み、調子を狂わせ鬱気味になってしまう。その様子をアシカは「ええ心がけでんな。」と評価するが、友だちのペンギン・サンペーは心配し、アシカに対して「ギンペーさんのはインチキ大阪弁じゃありません。ギンペー弁です!」と抗弁する。周囲の動物たちはサンペーに賛同して、ギンペーはもとの言葉(彼固有の言葉)を話すことを許され、調子を取り戻す。

恐らく、「外国人市民」にとっての再帰的な外国文化は、ギンペーにとっての大阪弁であるだろう。本書には、「外国人青少年の表現と異文化間リテラシー」の発展段階モデルとして、「エスニシティの否定」→「エスニシティの是認」→「エスニシティへの認識の深化から得られる異文化間リテラシー」(p.154)があげられているが、守破離ではないがその後に続くべきは、「エスニシティーからの脱却・組み替え」(破)→「個人史の発見・肯定による個人間リテラシーの獲得」(離)なのだと思う。

外国人市民と共感的に対話した経験を持つ教員やボランティア、あるいは級友が、当然のように他のカテゴリーのマイノリティにもそうした対話を開いていこうとするような状態になるには、経験された外国人市民との共感的な対話が、外国人市民のルーツと仮定された外国文化への理解や共感による共感的な対話ではなく、外国人市民一人一人の個別特有の喜びや不安、痛みを、その原因と同じ構造を外国人市民ではない自分の生活や心理の中にも発見してしまうことで結果的に得られる彼らの喜びや不安、痛みへの共感による共感的な対話であることが、必須の条件であるように私は思う。

そしてそのことにも恐らく著者は気がついている。本書の最終章にはこう書かれている。「異文化間リテラシーとは何だったのだろうか。ある人がその社会を内部からも外部からも見つめることができるが故に、自己と他者、マジョリティとマイノリティそれぞれが見ている世界を媒介する。その異なる視覚を媒介することによって、自己の属する社会を相対的に描き出し、多様な人々をつなぎ、社会改革を促していく能力、それが異文化間リテラシーだったのではないか。」(p.221)

私は本書を読み著者の問題意識と目的意識とに大いに同意する以上、異なるフィールドで間接的にではあるが、日々その目的達成に私なりのやり方で取り組み続けなければならないだろう。そしてそのことは、私が著者の、この一里塚を超えた次の著作を、刮目して待つための資格なのかもしれない。

 

外国人市民がもたらす異文化間リテラシー―NPOと学校、子どもたちの育ちゆく現場から

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バケツでごはん 1 (小学館文庫 くC 9)

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