日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

『ローマでアモーレ』に笑った笑ったでも泣けたよ

死を意識したウディアレンが葬儀屋と歌い上げる凡人の幸せと愛と人生。


以下ネタバレあり。


映画『ローマでアモーレ』予告編

 

 

キリストじゃない凡人は復活しないんだよね。前衛的なオペラの演出に人生を懸けてきたウディアレン扮するジェリーにとって引退は死と同じ。妻に時代を先取りしすぎてるのよと慰められているジェリーは評価された作品のないままに引退してとても心残り。

そんな彼は、シャワーを浴びてないと美声が出せない葬儀屋と出会い、復活に挑む。葬儀屋の歌は大絶賛。でも葬儀屋は実力が認められたことに満足し歌手の道は選ばずもとの葬儀屋に戻る。一方、シャワーの演出は酷評されるもイタリア語がわからないジェリーはそのことを知らず、妻はあなたは時代を先取りしすぎてるのよと変わらぬ言葉をかける。泣けるなあ。

全編超くだらないギャグの連続で笑いが絶えないんだけど、世間の評価に満足できない男(ジェリー)、夢の実現に踏み出せないでいる男(葬儀屋)、一度浴びた脚光を再びと願う男(パパラッチされた人)、金儲けに魂を売って半分くらい幽霊になっちゃってる建築家、などなど戯画化されたありがちな男たちと、それを丸ごと受け入れている女たちの人物設定が見事。

ベタな演出に徹したギャグの数々、それぞれ個別のエピソードのつなぎの妙など、ラフスケッチのようで実は大変に緻密に作られている。まるでピカソの泣く女のようだ。

ハリウッド的な大作に背を向けているウディアレンが喜寿を迎え、己の死の予感に、「足れりの思想」を執拗にギャグで練り込んで作品にした。沁みたなあ。

シャワーはリフレッシュできる手軽な再生のツールだけどいつまでも浴び続けられるわけじゃない。大いなる復活と無縁な我らは、小刻みな再生を繰り返し生きていくんだね。そんな人生は、愛につつまれ笑いに溢れていなければ、単なる濡れ鼠の人生になってしまうもの。