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『君を呼んだのに』RCサクセション

不覚にも今朝、通勤途中ビルの谷間を会社へ歩いているとき、この曲の歌詞の意味を理解した、と思った。30年前の曲である。実に30年もこの曲の歌詞がひっかかっていたのだ。

「君を呼んだのに」


バイクを飛ばしてもどこへも帰れない
バイクを飛ばしても帰りつづけるだけのぼくらは
寄り道をしてるんだ


描き上げたばかりの自画像をぼくに
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが見せる
絵の具の匂いにぼくはただ泣いていたんだ


自動車(クルマ)はカバのように潰れていたし
街中が崩れた


それで君を呼んだのに
それで君を呼んだのに
それで君を呼んだのに
君の愛で間に合わせようとしたのに


ずっとひっかかっていたのは、歌の最後のフレーズである「君の愛で間に合わせようとしたのに」の解釈だった。


普通に考えれば、何か本当に必要なものがないので当座しのぎに「君の愛」でなぐさみものにしようとしたのに、という解釈しかないように思う。そうとしかとれない、と思っていた。本命が他にいるのに、あるいは「君」をそれほど気に入ってはいないのに、「君の愛」で当座をしのごうと思ったのにそれもできなかった、という歌なのだと思っていた。


だが、何かがひっかかっていた。そうではない気がずっとしていた。


男が泣いた後、三回繰り返す「それで君を呼んだのに」。その「君」の他に本命がいるというのは考えがたい。となると「君」は、それほど気に入ってはいないのに、他よりは一番マシな存在ということになる。


だが、その解釈では切実なメロディーとしっくりこないのだ。清志郎の曲は歌詞と分かちがたい。詩とメロディーがしっくりこないというのはありえない。となれば僕の詩の解釈が間違えているはずなのだ。


当座をしのぐのが他よりは一番マシな「君の愛」であるなら、誰の愛が本当に求めている愛なのか?きっと聖母マリア的な理想の存在なのだろう、あるいは清志郎の産みの母親のことなのではないか、とずっと解釈してきた。論理的にはこれで筋が通る。だが、それはストレートな解釈ではない。あまりにわかりにくい。清志郎は、わかりにくい歌詞は書かない。それで、ずっとひっかかってきた。


それが、今朝、突然わかった。「間に合わせようとした」の「間に合わせ」は、「間に合う/間に合わない」の「間に合わせる」とのダブルミーニングだったのだ。


君が呼んですぐ来てくれたなら間に合ったのに、君は来なかった、あるいは遅れてきた。だからもう君の愛は手遅れで、僕はもう君の愛では救われないような状態になってしまっている、、、。そう解釈して30年ぶりに腑に落ちた。言うまでもなく清志郎ダブルミーニングの屈指の使い手である。それなのにこのダブルミーニングに30年も気がつかなかったのは不覚だった。


もちろん、これも間違えた解釈かもしれない。だが、腑に落ちたということは僕にとって正しい解釈なのだ。そしてそのような解釈も正しい解釈だ、と思う。その根拠は、「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが見せる絵の具の匂い」にある。絵と同じ鑑賞法をこの曲に対しても取ってよい、というメッセージがこの歌詞にはこめられていると思うのだ。


ビルの谷間を会社に向かって歩いていたとき、私の脳内には『君をよんだのに』が流れ、同時にヴィンセント・ヴァン・ゴッホの『裏返しの蟹』が油絵の具の匂いを漂わせていた。カバのように潰れた自動車と崩れた街並み、一瞬にして帰る場所を失った若者の乗るバイク、それら全てが311の光景に思われ、胸がつぶれた。







■このアルバムの9曲めに入っている

BEAT POPS

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