日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

『特権的肉体論』唐十郎

肉体に依らない疲れが肉体に霞のように残るとき、芝居が見たくなる。とはいっても、会社帰りに都合よく芝居がやっているわけはないし、映画では代替にならぬ。そんなとき、酒を飲みながら本棚の唐十郎の本に手を伸ばす。


特権的肉体論』ーー。

昔、吉本隆明が、魚屋のカミさんは魚を売って革命を知れといったが、役者が役者修業をもって革命を知るほどにも、役者の器は研ぎすまされたことはない。ということは、かつての役者の肉体が特権的に何かを語ったことがない。あるいは、その役者群による表現課程が未踏の境地に踏みこんだこともないということになる。ならば、劇的なる精神などという言葉は、一体、誰が語っているのか。(中略)劇的なる精神は別にあらねばならぬ。特権的肉体こそが、言葉を案内してゆかねばならないのだ。(『特権的肉体論』18頁)


私は吉本隆明に影響された世代ではないので、パパばななとしてしかしらないが(といってもばななもよく知らない世代である)それでも、その公害論は脳裏に刺さったままである。


吉本は、公害が社会問題になるのは、産業の主役が交代するときだと言う。農林水産業つまり第一次産業が工業つまり第二次産業にとってかわられた時代に、地盤沈下や大気汚染、水質汚濁といった公害が社会問題になった。それは、第二次産業第一次産業を生み出す基盤を毀損したからだという。そして、第二次産業第三次産業に主役交代するときの公害は、「精神の障害の問題」(吉本まま)だというのだ。(「現代を読む」『大情況論』1992.3弓立社に収録より)


第二次産業を生み出す基盤は肉体ではないのか?


そして、「精神の障害の問題」が公害として立ち現れているのは今ではないのか?


さすれば、今は第三次産業第四次産業に主役交代するときなのではないだろうか?


インターネットの普及によって決定的になったバーチャルな世界をフィールドとする産業が第四次産業といえまいか。


念頭にあるのは、バットマンのジョーカーを名乗った乱射事件だったりする。


吉本の公害論から、第三次産業第四次産業の境界を思い、特権的肉体論を手がかりに、第四次産業へのソフトランディングを考える。


こういう時に飲む酒は、シングルモルトだ。


特権的肉体論

特権的肉体論