日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

「真珠の耳飾りの少女」見てきました


東京都美術館に「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」(http://www.asahi.com/mauritshuis2012/)を見に行った。目玉展示はフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」(1666年?)である。




■実物から受ける印象は下の絵とは全く違う




実は、この展示に先駆けて、先日フェルメールセンター銀座(あっぱれ北斎! 光の王国展 | フェルメール・センター銀座 Vermeer Center Ginza)に行ってきた。こちらは、フェルメールの全37作品を、当時の色とコントラストを最新のデジタル技術で再現することを試みたレプリカの展覧会である。全ての作品が時系列に展示されていることにより、フェルメールが何を描こうとしたのか、その意図をあきらかにしようとする解析的な展示会である。


私は、フェルメールは、どのようなモチーフの絵を描いたとしても全て宗教画として描かれていると思っている。


さておき、レプリカの「真珠の耳飾りの少女」と、実物の「真珠の耳飾りの少女」は別物であった。誰のどんな絵であっても、画集の絵と実物の絵は別物であるのだが、フェルメールの絵は、気配を描くことを主題としている点で、例えばレンブラントの絵が、画集と実物とは別物だ、ということとは別の意味で、別物なのである。この意味で、私はフェルメールは何をモチーフに描いたとしても宗教画家なのだと思っている。


同じような思いをルーベンスにも感じる。彼の絵にも気配を感じる。画集にはそれがない。絵に気配を描き込むのは、ひとつにはテクニックの問題である。ルーベンスフェルメールもオランダの画家で、生きた時代も少し重なっている。当然、テクニックも一部共用されている。


しかし、絵に気配を描き込むことを目的としなければ、絵に気配は描き込まれない。同じテクニックを用いても、他の同時代のオランダの画家とはその点に違いがあると思う。まあ、フォーカスの違いを、異なるテクニックと解釈してしまえば微妙な問題になるのかもしれないが。それでも私は、気配の描き込まれた絵に惹かれてしまうのである。