日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

『告白』と女と殺人

『告白』を見に行った。スタイリッシュで面白かった。が、この映画にテーマがあるのかないのか最後までわからなかった。

以下、この映画のテーマと思われるものについて以下に語ります。


映画「告白」劇場予告


もちろん、この映画にテーマがあったってなくったってどちらでもいい。でも、この映画の作り手が、この映画にテーマを持たせることに本当に無自覚だったのか、それともテーマのにじませ方に失敗したのかわからない、というのは作品として未熟だとも思うんです。

もしこの映画が、そんなことを感じさせない、隙のない出来だったら、と思うと少々残念です。仮に、テーマがないのだったら★4、テーマがあったとして、それをうまく滲ませて余計なことを考える隙を与えない出来だったら★5でした。でも実際は、この映画にテーマを語るのは野暮なんだろうな、と完全には思わせてはくれなかった。つまり、完全にスタイリッシュな映画ではなかった。残念ながら。そして、映像がとてもスタイリッシュなところをのぞけば意外とストーリーは凡庸かも、と思ったのも事実。原作はともかく、映画としての話の展開も。

まず、この映画にテーマがあったと仮定した場合のテーマについて。
表向きテーマに見えたもの。最後の台詞「なんてね(なーんてね)」について。これは娘と夫を連続して失った森口が、自分をとりもどしたってことなんじゃないでしょうか。単純に娘を殺された母なら、単純に犯人を殺したでしょう。ところが連続して失ったのは、理想の教師たる夫。理想の教師は殺人者にはなれない。森口は、直接殺人者になることより、教師として復讐することを選びます。かつて母であり、妻である者の帰結として。そして、きっと教師という枠でつなぎとめないと、森口の精神は崩壊してしまったのではないかと思います。教師だから生きることに耐えられた。教師だから復讐できた。しかし教師であったがゆえに娘を死なせてしまった(普通の職場にはプールはないし中学生もいない)。


ところが教師としての復讐は、結果として、犯人ABを文字通り生み出したおおもとであるその母らを間接的に殺害することになります。あまつさえクラスの生徒の一人も。


これでは、教師失格です。だから、最後の教育的指導のことば、これは意味がない。森口はそのことに気づいて、「なーんてね」と言ったのでしょう。母としての復讐は終わり、熱血教師の妻としての人格は破綻した。最後には一人の人間「森口」が残された。


少年法も社会を守る法の一つです。社会と個人、これが表向きのテーマなのかしらん。


でも、もしそれが隠されたテーマだったとしたら、そんなテーマはどうでもいい、と思ってしまう自分がいます。だってこのスタイリッシュな映画に、そんなテーマが隠されていたとしたら、ブレンドが甘すぎます。そんなテーマはこの映画にとって余計なことだと思うからです。そんな余計なことを考えてしまうので★3なんだ。


次に、この映画にテーマなんてなかった場合。僕的にはこっちの方がずっと面白い。この場合、作り手の無意識こそが隠されたテーマとして見た者に析出してくるからです。


この映画の設定は、独特です。


男が死なない。


女が女を殺すという構造になっています。


これは、面白いと思いました(もちろん「面白い」はinterestingの意味で、不謹慎なことを思っているわけではありません)。


この作品では、AIDSに犯された血液という設定が、教師の復讐の際のツールとして使われます。AIDSは、性交を抑制する。すなわち、男女が男女であることを禁じられ、そのことが結果として父母であることを不可能にします。そのような機能を記号として持っています。


この映画では、父は最初からいないか、または無能ないしは凡庸なものとして描かれています。そして新しい担任は、父にすらなっていない。社会的な機能としては、中学生とかわらない「子」に過ぎません。


父の不在。これは、西洋的にはニーチェ以降の世界認識です。神の死ってやつ。グローバル化というのは、父が不在な社会がスプロールしていく、非西洋を父の不在感が蚕食していく過程のことです。


西欧に対する日本は、二元論的な比喩の世界では、天に対する土、父に対する母、として対応が可能です。グローバル化したあとの日本は、父と結婚した母によって作られた家庭のようなものです。


明治維新以降の日本は、西欧を規範すなわち理想の父として見ていた。お見合い結婚が普通の社会では男=父の等式が成り立ちます。ところが、結婚してみたら、父は不在だった。クリスチャンではない大多数の日本人は、不在に神を見ることができない。日本ではもともと神の座にあるのは母性だからね。だから、西欧は男として日本を犯すだけだった、と感じた日本人が多かった(特に戦後ね)。西欧コンプレックスの起源だね(ニーチェは神が死んでいたことを言い当てたにすぎず、神の死に立ち会ってその死を宣言したのではないことに注意)。


で、時代が下ってグローバル化社会となる。グローバル社会では、母は父と同様に振る舞うことが求められる。社会に出て成功する、勤め人として全うする、こういったことを人生の第一目的にする、これが男だけでなく、女の理想としても、というか、ジェンダーフリーの理想として社会が要求する、或いは社会に要請する。これがグローバル社会です。


子は?


子と言われてキリストを連想することのない日本の社会では、母が父化したとたん機能不全を起こします。子(個)がおかしくなる。それが、戦後しばらくは、学校や会社といった身近な共同体が疑似家族化していることで、個の崩壊を防いでいた。


映画では、母である森口の後任として、結婚していない、つまり父でない、つまり子にすぎない寺田が赴任してきます。そのことが惨劇を連鎖させる。擬似的な母でもなく擬似的な父でもなくおっきな子供が担任では、共同体は疑似家族として機能しません。機能しない疑似家族、これは現在の日本の姿かもしれない。会社も成果主義でとっくに疑似家族をやめちゃってるしね。


そんな、セーフティーネットが壊れた環境で、 父の不在にうまく対処できず子育てに失敗した母が息子Bに殺される。 母の不在を言い当てた、つまり真実を語ったことで少女は少年Aに殺される。 子供より自身の才能の追求を選択した女は、その結果として殺人者Aを生み、それを知った被害者の母の仕掛けでやっぱり息子Aに殺される。


グローバル化した日本社会における象徴的な意味での母殺しへの帰結。直接手を下したのは息子。でもそれを引き起こしたのは、かつての共同体の統治者としての女(そしてその女は母であることと妻であることとを奪われたことによって統治者であることを辞めざるを得なかった女である)と後をついだ未熟な大きな子との結果としての共犯関係。悪いのは大人か子供か、輪廻のように循環して、時間が閉じてしまっているためにわからない。ひょっとして最後にスクリーンに映された逆進する時計は、最後の審判の日まで一直線に進むことが構造化された西洋的な世界観に対する抵抗の表れだったのかもしれませんね。ミルクも母乳の比喩だったのかも。


そんなテーマが隠れていたようにも思えます。実際はどうなのかはわかりませんが、そんなことも脳裏に浮かびました。


(06/14/2010 ユナイテッドシネマとしまえん にて)

告白

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