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コンビニの棚もメディア

■チドウセツで産業構造は変化する

最近、仕事で、チドウセツから世界が変わっていくんですよ、という話しをすると納得されることが多い。

もちろん、ガリレオ・ガリレイの地動説になぞらえてはいるのだが、地球物理の話しではない。

チドウセツは、知動設のことで、知識産業、モビリティの産業、設備産業のことを指している。


今、さまざまな産業界で、事業の枠組みが根本から変わってしまうような劇的な変化が襲ってきているが、特に「知」「動」「設」の順に産業構造のドラスティックな組み替えが迫られているように思っている。それを私は、記憶に残りやすいように「チドウセツから世界が変わる」と説明している。


■コンビニの棚もメディア


知識産業とは、人の知恵と認識に関する産業で、代表的なのは、新聞やTVなどのマスコミだ。広告代理店や教育産業、情報産業がこのカテゴリーだ。変化というものは、変化以前の状態が長く安定的であればあるほど破壊力を増す。その意味で、比較的新しい業種の集まりである情報産業よりは、伝統的なマスコミの方がより強い破壊力にさらされていると言えるだろう。ネットの影響で旧来のマスコミが存亡の危機にさらされている、などというと、ネットの世界になじみがある人からはまたその話かというような顔をされ、月に数十分ほどもキーボードを叩くことのない生活をしている人からは何のことを言っているのかというような顔をされる。まあ、このあたりの話は佐々木俊直氏が精力的にレポートを続けているので、ここでは深入りしないことにするが、一つだけ、小生が強烈な印象を受けたある企業の講演でのエピソードを紹介したい。


その企業は、トイレタリーの大手メーカーである。昨年の春頃、その会社の宣伝部の人の講演を聴く機会があったのだが、コンビニの棚をメディアとして見なければならない時代に備える必要がある、という主張をしていた。最近の若い世代は、新聞を取らない。だから新聞広告を出しても見てくれない。また、部屋にTVがあっても、ほとんどの時間がゲーム機の画面として使われている、たまにTV番組を見るにしても録画で見るのでCMは早送りされる。だからTVCMを流しても見てくれない。雑誌を買うお金はケータイの通信費に消えていく。だから雑誌に広告を出しても見てくれない。近い将来、広告の見方がまったくわからない世代が、消費人口の中心をなす時代がやってくる。彼/彼女らは、広告のリテラシーそのものがないのだから、どんなにお金をかけて工夫して広告を打っても、広告を目にしてもそれが広告として認知されないのではないか。新製品を初めて目にするのがコンビニの棚であるような世代に、どうやってそれを新製品であると認知させればいいのか、それを考えなければならない、ということなどを講演で語っていた。このメーカーは、マスコミも広告代理店も全く姿を消した/変えてしまった世界を前提にマーケティング戦略を練っていることがわかり、自分たちはさらにその先から過去として近未来を振りかえって戦略を提示することができているだろうかとショックを受けたことを覚えている。


■距離が無意味化し移動に関わる産業が変化し始めた

次の、モビリティの産業とは、人の移動に関する産業のことだ。自動車や鉄道、航空などが該当するが、適当な言葉がないので私はモビリティの産業と呼んでいる。自動車では、内燃機関からモーターへという流れが本格化しそうだし、鉄道ではJRが高級スーパーの紀伊国屋を買収するなど、ハブアンドスポークモデルだった私鉄系の百貨店の凋落ぶりとは対照的に、グリッド型の小売りモデルとの相乗効果が成果を上げている(と私は見ている)。先日もたまたま降り立った巣鴨駅のアトレのこじんまりとしたまとまりのよさにJRの戦略の綿密さを思い知った。かつてどのターミナル駅も同じように開発していった悪夢(三鷹駅前と水戸駅前とを誰が区別できようか)とは決別したようだ。航空では、JALの迷走ぶりや、地方空港のあり方が問われているし、高速道路の料金をどうすべきかという議論も決着がつくにはほどとおい現状だ。


これら、個々には全く別の事象も、実は偶発的に散発しているのではないと考えている。背景にあるのは、やはりネットの普及だろう。インターネットでは、一度インフラが整備されアクセスが確保されてしまえば、地理的な距離はほとんど意味をなさない。ネットで距離感を感じさせるのは、回線速度や言語の違い、時差などだが、狭い日本の中ではこれらはほぼ無視できる(状態にある消費者が大多数を占めているといえる)。米国で、ウォールマートが最大のライバルをapple storeやamazonだと考えているという例を持ち出すまでもなく、もはやネットとリアルの相互不可侵は例え希望してもかなわない。新型インフルエンザが流行ったとき、鉄道や航空の客を食ったのはTV会議だったという例もある。その昔、消費/商売の集積地は交通に依存していた。新宿や品川など宿場町から続く大きな繁華街は多い。また、長く鉄道のなかった沖縄では街はスプロールしている。今、逆に、距離のない世界での消費を一方の前提とした移動が問われているのは、不思議なことではない。電気自動車にしても、自動車を所有する目的の変化からガソリン車との比較・位置づけをすべきなのである。若者の自動車ばなれを若者文化の文脈でのみ考えると、それこそ道を見失ってしまうだろう。


■整備された日本の設備産業だからこそある開発遅れのリスク

最後の設備産業とは、社会インフラに関する産業のことだ。電気・ガスなどのエネルギーや、水道・水ビジネスが該当する。「知」と重なる分野としての通信キャリア、「動」と重なる分野としての港湾、空港、高速道路などはこのカテゴリの性格を併せ持つと考えて欲しい。こちらの変化もいわずもがな。スマートグリッドやブルーゴールド、次世代原子力発電というのは、もはや国際的なイシューである。広い意味では、基地を含む軍需産業もこのカテゴリーに入る。で、この分野の変化は日本では他国より遅く展開するだろう。今のインフラのままでも結構快適だからだ。全国各地に太郎という名のついた地名があるのをご存じだろうか。太郎という名前のつく土地は結構いなかであることが多いが、実は当初は最も開発(田んぼの開発)の進んだ土地につけられた名称である。江戸時代、稲作が奨励されると、太郎すなわち長男にもっとも水の便のよい土地が水田として相続された。それが太郎の呼称の由来である。特別な灌漑などしなくても良質の米が取れた田園地域、それが太郎である。しかしそのことがその後の稲作の技術革新の採用を遅らせ、いなかとして取り残された、それが全国各地の多くの太郎の土地のその後である。日本のインフラは、行政がきちんと機能しないと、太郎化するリスクもあるのではないかと思っているが、この時代に杞憂かも知れぬ(ことを祈っている)。


■ネクストノーマルを用意できるか
「知」「動」「設」の順に産業構造の変化に見舞われるというのは、実は自然なことなのである。「知」はアタマ、「動」はカラダ、「設」は社会に相当する産業である。アタマは神経のネットワークだから動きが速いのはあたりまえ。カラダは物理法則に縛られるので、アタマよりは動きが遅い。社会はアタマで考えてカラダで作っていくものだ。それがネット上ではアタマとカラダとシャカイが等速なものだから、ほぼ同時に事態が進行し、リアルとの関係で、それぞれの変化の速度に差が出てきている。産業革命以来の天動説に終止符をうち、ニューノーマルの次に来るネクストノーマルを用意できるかが、チドウセツには問われている。