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『空気人形』

なんか無性に映画が見たくなって、先週の土曜日に用事の合間に時間を作って是枝監督の空気人形を見に行った。

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cinemascapeにこんなようなの書いた。

「空気人形」は、大人のおもちゃの人形が心を持ってしまうというお伽噺だ。人の目線で描かれた映画かと思ったら、天使目線で描かれた映画だった。

以下、ネタバレあり。

空気人形は心を持った。どこに?皮膜に。だから空気人形は空気を抜かれても心はしぼまない。空気人形は空気より重い。だから飛んでは行かない。空気より重いのは皮膜があるから。重いのは心。


天使は空気と同じ重さ。だから飛翔する。心を持った天使は重力に負けて地上に降りる。空気人形の影は薄い。影がないのは何だっけ?


この映画は「軽い」。だって中身は空気なんだもの。軽いに決まっている。この映画は「きれい」。だって天使の物語だから。


天使は、人を生ゴミに変えることができるよ。だって天使なんだから。結局、天使は人がわからない。だって天使なんだから。結局、人も空気人形がわからない。だって空気人形は天使なのだから。


そう、この映画は天使目線の映画として完璧だ。だが、俗物である僕は、もう一つの「空気人形」を夢想する。天使との距離を埋めたいのが人間だから。


岩松了扮するビデオ屋の店長は、DVDはダメだよ、本物は映画館で見なくちゃ、と言う。映画好きの店長にとって、自らの仕事は代用品を扱っていることを告白するシーンだ。だとすれば、スクリーンの人間は、人間の代用品とは言えまいか?軽くてきれいではおさまらない僕は、映画版「空気人形」と同時に、演劇版「空気人形」があって欲しいと夢想する。ビニール(ラテックス)のボディスーツを着た生身の女優が、消そうとしても消せない生身の存在感を極限の芝居で消し去ろうと空気人形を演じる。ギューギューとビニールが肌と擦れあう音が芝居小屋に鈍く響く。映画版「空気人形」が映画という表現手段の可能性を武器にして「空気」たらんと天使目線を徹底したのと対称的に、演劇版「空気人形」は演劇という表現手段の限界を武器にして「人形」たらんと人間目線を徹底させた悲しくキッチュな寂しい芝居だ。岩松了の名前が僕にこんな妄想をさせたのか?いや違う。ペ・ドゥナがあまりに天使だったので、彼女に人形になってもらいたいと、特権的肉体論なる言葉も頭によぎりつつ、よからぬことを考えてしまったのだ。


★3つ。あとの2つは演劇版に取っておく。


追.オダギリジョーの今回の魂の入っていない演技は、心のこもった演技では天使目線が壊れてしまうことを計算に入れた意図的なものだとしたら恐ろしい。神に人のような心があるかなんてわからないよなー、なんてことも思ってしまった。


(評価:★3)


映画より演劇の方が生きる題材ってあると思う。愛ルケ愛の流刑地)なんかも、演劇だとかなり面白いんじゃないか。基本菊治の一人芝居がベースで、冒頭背景のスクリーンに男女のからみをねちっこくモノクロで大写しにして冬香の喘ぎ声で客席に笑いが起きたタイミングで、菊治の獄中での独白から舞台が始まる。でもって芝居の後半は裁判シーンの二幕立て。エロスと死、孤独と失笑、個人の倫理と社会(裁判)の倫理、おいしいいテーマがいっぱいつまっている。菊治は風間杜夫、冬香は出版直後の芝居化だったら鈴木京香がイメージぴったりだと思ったが、36歳の設定だと今はいささか無理があるかもしれない(失礼!)。いま舞台化するのなら松雪泰子ライクな感じの舞台女優を探すのがよいかしらん。演出してもいいくらいだ(ありえないけど)。

CinemaScape/Comment: 空気人形より一部改変