日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

『ガチ☆ボーイ』は本物のプロレス者である

先週末出社したので今日は代休。TSUTAYAでDVDを借りて見た。佐藤隆太出世作である。結構ボロボロ泣いてしまった。


ガチ☆ボーイ (プレビュー)

ついついツァラトゥストラはかく語りきにでてくる綱渡師のエピソードなんかを思い出して、cinemascapeにこんなようなの書いた。

なぜこんなにベタな演出なのに泣けるんだろう。凄く不思議だった。そして思い当たった。これは学生プロレスに始まって本当のプロレスに行きついた映画だったからなのだ、と。


以下、ネタバレあり。


進歩がない。
過去を背負っている。
無理解と戦っている。
危険、だからこそ楽しい。
戦う理由がある。


これらは全て安全第一の学生プロレスにはなかったものである。 そして、なによりも五十嵐は記憶障害によって必然的に、毎試合ごとに人生を懸けるという学生プロレスに最もありえないシチュエーションを持ち込んだ。


学生は、学生という特権的な時間に住むゆえに、学生プロレスはそれがどんなに懸命になされても、人生の通過点である以上のものではありえない。ところが、眠るたびに記憶を失う五十嵐にとって、学生プロレスは毎日が新しい人生となり、肉体の痛みこそが、かつての事故前の人生とその後をつなぐ唯一のよりどころとなる。


五十嵐にはプロレスをすることより他に人生の生き場がない。プロレスにしか人生に生き場の無い者をプロレスラーと呼ぶ。五十嵐は水を葡萄酒に変えるように学生プロレスをプロレスに変えたのだ。


そしてプロレスファンとしてもう一言言いたい。マリリン仮面のブレーンバスターの受け身だけはガチ、だと。


(評価:★4)

CinemaScape/Comment: ガチ☆ボーイより一部改変

ガチ☆ボーイ

ガチ☆ボーイ