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『崖の上のポニョ』

cinemascapeにこんなようなの書いた。

宮崎駿が観客にかけた魔法は、実は、ソースケが、父母をファーストネームで呼ぶその設定なのではないかと思っている。


以下、ネタバレあり。


ソースケは、母ちゃんをリサと呼び、父ちゃんをコーイチと呼ぶ。これは物議を醸すだろうなと思って映画館から帰って「ポニョ 呼び捨て」とググったら案の定あちこちで議論が始まっていた。


宮崎さんはしてやったりだろうな。


ポニョの両親が人間圏を守るためにソースケに求めたことは、ポニョを愛することだ。そしてその課した愛の深さは、5歳の子供が「ポニョ好き」「ソースケくん好き」と保育園で戯れるレベルでは決してない。5歳の子供が、愛の意味を知っているか? 直接的にはもちろん否だが、間接的には可能性がある。それは、愛し合う二人が身近にいる環境にある場合だ。通常、父と母は愛し合っている(だから子供がいる)。しかし、オールドスタイルの日本の家庭においては、父と母の恋愛関係は、まさに「父」と「母」という一つの役しか許容しないことによって隠蔽されている。父と母は主体的に父と母のみを演じることによって子供に子供以外の役柄を許さない。それにより、エディプスコンプレックスや父殺し(比喩的な意味での)や母殺し(比喩的な意味での)がセットされる。


崖の上にあるソースケの家は、それとは真逆の構造にある。リサとコーイチは、子供の前でも恋人のように名前で呼び合い、どころか、子供に父や母と呼ばせることを許容していない。子供の役柄に逃げ込むことを許されていない子供、それがソースケだ。結果、ソースケは5歳という生物学的な年齢において可能な限り自立した個人として振る舞う。そんなソースケが「ポニョが好き」というとき、精神的には親の互いに愛する姿が投影されているはずだ。


つまり、設定的に、ソースケは両親をファーストネームで呼ぶような環境に育った男の子である必然性があったのだ。


子供は、子供として扱われることによって庇護と代償に可能性の解放を延期される。恐らく、宮崎駿はその時間を惜しいと思ったのだ。社会なり地球なりの危機を打開するには、一人一人が知恵を絞って生きていくことが必要だ。モラトリアムとしての子供などという悠長な文化装置は今の時代には捨てなければならない。そう判断したのだと思う。もっと言えば、儒教社会そのものを彼は全速で壊したかったのではないだろうか。儒教社会では、集団は疑似家族となる。幼稚園の年長組は、小学校一年生になると再び末弟として幼く振る舞うことを求められ、それは中学、高校、大学のクラブ、多くの日本企業の新入社員まで繰り返される…。


この映画を見た帰り、多くの子供たちは、ソースケのように親を呼び捨てにしようと試みるだろう。そして、映画館で見た直後の親の笑顔とは打って変わった怒りの形相に触れるだろう。幾人かの子供たちは、疑問に思い、家族の虚構に触れるだろう。うまく言い表せなくても、心は確実にその裂け目を感知するはずだ。子供はそうして親に気づかずにソースケとなっていくだろう。そしてポニョに出会ったソースケは、もう儒教的な家庭を作ることはないだろう。


(評価:★4)

CinemaScape/Comment: 崖の上のポニョより一部改変