日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

『ダークナイト』を反転させたらビル・ゲイツの人生になった

 本作はクリストファー・ノーラン監督のバットマン2作目である。だが、タイトルにバットマンが入っていない。

 名は体を表すではないが、本作は別にバットマンシリーズである必要のない作品になってしまっている。

ジョーカーが主役のバットマンを喰ってしまったという意味ではない。バットマン映画でなくても成立してしまうようなストーリーなのだ。

だから、ジョーカーが空回りしてしまっている。(以下、特にネタバレなし)


ダークナイト 映画予告編

 

誰もが指摘するように、ヒース・レジャーがつくりあげたジョーカー像は美しいまでに素晴らしい。

だが、演出は何をしていたのだ?もし、演出がヒースについていっていれば、トゥーフェースになる前のデントには偽善の臭いを1%も与えてはいけなかったのではないか?アーロン・エッカートは演技を連続させてはいけなかったのではないか?

だが、監督は何をしていたのか?パリス・ヒルトンを思わせるブルース・ウェインのセレブぶりに対し、何の解釈も示さないのは、クリスチャン・ベールの無駄ではないのか?

911を思わせる病院の破壊跡のシーンを見ながら、これじゃあヒース・レジャーも浮かばれないなあとぼんやり思っていたら、にわかにビル・ゲイツのことが脳裏に浮かんできた。

ブルース・ウェインビル・ゲイツは、お互いが鏡像のようだ。そっくりであべこべだ。

どちらも大金持ちで二つの顔を持っている。

大企業のトップを引退し、稀代の慈善事業家としてカネの力をテコにして世界の救済に知恵を絞るひ弱い中年ビル。 大企業のトップに君臨し、最強の自警団員としてカネの力を装備に変えて地域の救済に身体を張る頑強な中年ブルース。

ビルは実業家としての顔では皆の嫌われ者で、引退し、もう一つの顔である慈善事業家として世界を救おうと拍手喝采を浴びている。 

ブルースは実業家としては皆に好かれる大セレブだ。彼はマスクに執着し、もう一つの顔であるバットマンとしてゴッサムシティの平和を守るが、理解者は少なく、最後のシーンでは犬に追われるダークナイトだ。

ビルの愛車はプリウスで、ブルースの愛車はランボルギーニだ。

ブルースは架空の人物で、ランボルギーニは実在する。ゴッサムシティはランボルギーニというホワイトホールを通じて存在するNYのパラレルワールドであるにちがいない。ヒース・レジャーはそれに気づいて(結果的に)命を懸けてこちらの世界にメッセージを残した。

パラレルワールドを通して実世界の真実を現実以上に暴くのが神話である。この映画は設定としては神話となりえた。なのにクリストファー・ノーランは、せっかくのその設定を放置してしまったのだ。

ヒース以外、神話の創造に向き合う者はいなかった。ヒースは二重に悲劇的だ。血が通っているのがユダだけでは福音も黙示録も紡がれることはできない。この作品は水蛭子*1であると思う。映画としてもバットマン作品としても。

 

ダークナイト (字幕版)
 

 

*1:水蛭子(ヒルコ)には、中途半端、未完成、未熟、不幸な作品、続編が恵比須になることへの期待、等の複合した意味をこめた。