日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

『ラオウ伝 激闘の章』は九鬼周造である

北斗の拳 ラオウ伝 激闘の章』を家内と見た。TVアニメ版北斗の拳とは違って大人の映画との評判である。

実に「いき」な映画であった。


真救世主伝説 北斗の拳 ラオウ伝激闘の章


原作は正直なところユリアという一人の女を奪い合う兄弟喧嘩の域を超えるものではなかった、と思う。ところが、この映画では、伝令がラオウに南斗最後の将の正体をユリアだと告げたあと(原作では伝令ではなく類推)のラオウの変心のシーンの改変により、見事、兄弟喧嘩からスケールの大きな覇者同士の人間ドラマとして完結させることに成功している。その力量に舌を巻く。

原作では、ラオウが拳王の名を捨て魔王となることを選んだ理由は、ユリアが自分ではなくケンシロウを選んだことへの怒りと嫉妬であった(もちろん兄弟による一人の女の奪い合いも映画的なテーマにはなりうる。『ゆれる』を見よ。)。
しかし、この映画では、最強の拳の伝承者にふさわしく、そのような個人的なテーマはより大きな人間的なテーマに昇華されていく。
本シリーズでは、ラオウは平和を実現するために乱世を統一する野望に突き進んでいることが何度も強調される。そして、そのことが、ラオウの暴力と対となって描かれているために、見る者に統一後の平和を実現する自己の姿を思い描けないラオウの意識/無意識を逆説的に想起させる。

映画でのラオウは、南斗最後の将の正体をユリアと知ったときに、己の宿命は天下を統一するまでの天の捨て駒なのか、それとも統一した天下を平和に治めることのできる王となれるのか、二つの可能性を心に抱く。しかし、天命を重視するラオウは、それを選択肢とは考えず、天命に尋ねる。
即ち、拳王の名を捨て魔王となり、ケンシロウと雌雄を決することでおのが運命を見定めようとするのだ。
この時点では、ラオウは自分の力で平和な世を築く可能性を諦めていない。故に、ユリアに手をかけてまで無想天生を修得しようとするラオウは、一人の女への愛を否定してまで人類の平和を実現しようとする悲劇の男として説得力を持つのだ。
そして重要なのは次に来るユリアの吐血のシーンである。原作では回想として語られるユリアの吐血が、映画では時の流れの順通りになっている。ラオウは、ユリアの吐血により、おのが天命は天下統一までと悟るのである。そして、自らの運命に幕を降ろすため、ケンシロウとの決戦に向かうのである。

故に、原作では気の乱れから敗れるラオウの気は乱れない。気を消し、自ら敗れるのである。
このことにより、ユリアの次の科白「この暴力の荒野は恐怖によって統治するより術はなかった。しかし恐怖による統治に真の安らぎはありません。統一をはたしたラオウは自分が愛を持つものに倒されとってかわることを願っていたのでは…。わたしにはそんな気がしてなりません。」は、原作と映画とでまったく違う意味を持つ。
即ち、原作では、そのような可能性の示唆であった「わたしにはそんな気がしてなりません。」という言葉は、映画では、かくもあからさまな帰結を婉曲な言葉で言いのけてしまうユリアとラオウとの距離、ひいては男と女との断絶を示す悲劇の言葉として語られる。そしてその哀しさは、次のシーンにレイナが映されることで、救いへとつながれる。

見事だ。「わが生涯に一片の悔い無し!!」原作では絵空事や強がりの響きをいくぶんかはまとっていたこのラオウの辞世の言葉は、映画版において初めて真実を語る言葉となったのである。


 さて、私は冒頭にこの映画は「いき」であると書いた。それはどういうことかについて以下に書いてみたい。

九鬼周造によれば、「いき」は嬌態(なまめかしいふるまいや態度by広辞苑第五版)である。嬌態とはつまり恋愛感情の身体的発現である。

九鬼は言う。「いき」は『自己に対して異性を置き、自己と異性との間に一種の関係をつける二元的立場である。(中略)この二元的関係は嬌態の本質であって、異性間の距離が次第に接近して遂に両者合一して緊張感を失う場合には嬌態は自然消滅するものである。嬌態は異性の征服を目的としながら、征服の実現と共に消滅するものである。』と。

つまりは、「いき」の本質は異性間のつかず離れずのじれったい緊張関係にあるのであって、二人が結ばれてしまった時点で「いき」は消滅する、ということだ。これは、よく考えてみればあたりまえのことである。肉体的合一状態では嬌態はありえない。

ところが、九鬼は「いき」は嬌態のみをその要素とするわけではないと主張する。『「いき」は「嬌態」と「意気」と「諦め」との結合』なのだ、と。

『「いき」の第二の表徴は「意気」である。』九鬼は「意気」を武士道に由来するという。『「意気」は異性に対して一種の反抗を示して居る心の状態である。』『「いき」の第二の要素たる「意気」は理想主義の生んだ心の強み』である。「意気」ゆえに「いき」は異性に惹かれつつも合一を潔しとしない緊張感を持続することができる。だから「いき」なのだ。ラオウは、ユリアを城で奪い去るが、合一することを考えず手にかけることさえ考える。「いき」である。

『「いき」の第三の表徴は「諦め」である。それは運命に対する知見に基づいて執着を離れた無関心である。』『この第三の要素が仏教を背景として強調されているのは云う迄もない。』『「諦め」は一種の頽廃の生んだ気分で、(中略)せちがらい、つれない浮世の鍛錬を経て垢抜けした心、現実に対する執着を離れた淡恬の心である。』「諦め」ゆえに「いき」は性急な合一を指向しない。ケンシロウは全てに優先してユリアを求めることはしない。これも「いき」である。

『西欧の文化にあっては、性的関係は現実主義と連結しているのが常で理想主義を予想する「意気」と嬌態とが結合して凜呼たる「いき」を生む場合は殆ど見られない。』また、キリスト教的世界観においては仏教的な「諦め」と嬌態とが結合することもない。

ユリアは慈母星であるが、不治の病にあるために、実子を志向しない。そのことが万民を子と思うその振る舞いに説得力を与えている。しかしながらその性格はマリアというよりは鬼子母神である。
鬼子母神は、万の子を持つ慈母神であると同時に常に他人の子をくらう鬼神でもある。映画版でのケンシロウが仏教的な「諦め」をまとっているのに呼応してか、ユリアもまたマリアよりは鬼子母神の影を纏っている。マリアならば自分を愛する存在を逡巡なしに殺そうとすることはありえない。鬼子母神であればこそ、自分を愛するラオウのもとに南斗五車星の炎のシュレンを刺客として放つのだ。

さて、ラオウは南斗最後の将がユリアだと知り、覇軍の将たるを捨て個としてケンシロウとの一騎打ちに挑む。この乱心とも見える行動をラオウはなぜ取ったのか。
恐らくラオウは必要以上に運命を感じてしまったのである。彼は北斗神拳に宗教的心情で殉じたのだ。このラオウの心情こそ武士道である。そして『武士道』新渡戸稲造は基督信徒なのだ。
映画版のラオウは「いき」であり、「いき」であるが故にキリストの十字架を背負った存在となった。そう考えれば、ラオウケンシロウとの決闘に際し、ユリアを仮死にしていたことの原作と映画版との違いにも納得がいく。
即ち、原作では秘孔を突き仮死状態にして病状を停止させたことが、リハクによって語られるが、この人間的な情愛のシーンは映画版にはない。そのことにより映画版では、ラオウケンシロウへの兄弟愛が浮かび上がる。ケンシロウは憎しみでも持たなければ、あるいはユリアを手にかけたほどの救いのない相手だと認識させなければ、本気で自分の息の根を止めにはこないだろうという弟への信頼によりユリアを仮死にしたほどの兄弟愛が。この美しくも悲劇的な兄弟愛は、とても神話的ではないか。

原作である劇画版北斗の拳は、キリスト教的終末感に強く彩られた作品であった。ところが、映画版は、上述のようにキリスト教的終末感一色ではない。本作はラオウ伝である。少なくともキリスト教的な救世主としてのケンシロウを中心とした物語ではない。キリスト教的世界観を背負っているのはケンシロウではなくラオウである。このことが、北斗の拳を21世紀にリメイクする意味であったのだろう。

キリスト教的終末感の支配した世紀末は終わったが、なお世界は矛盾に満ち、日々どこかで無垢の人々が大量に血塗られている。この矛盾に満ちた世界を終末ではなく、仏教的な末法の世として捉えなおすことにより、20世紀末の到来とともに風化してしまった物語を再生する。これが映画の作り手の狙いだろう。そして同時にキリスト教的な方法での平和の追求を成仏させる。実に、ラオウは盛大に仏式で葬送された。「この映画をラオウを愛する全ての人にささげる」というキャプチャーは、正義の国米国の失策に心を痛める悩めるキリスト者へのメッセージに、私には聞こえた。

『激闘の章』である本作は、ラオウの死で終わる。ラオウ亡き後の世界は本作には描かれていない。

そして本作は、マーケティングの失敗により興行的には大敗した。これは人災だと思うが、単なる人災に過ぎないのか。それともこの人災は天の意志なのか。今の世の中はラオウの死を受け止めることはできないのか。ラオウ後の平和な世界を我々は想像できるのか? 刮目してケンシロウ伝を待とうではないか。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 (講談社学術文庫)

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