日本は成功しすぎたEUである(映画と思想のつれづれ)

明治の国会には藩の数ほどの通訳が当初いたそうです。律令制の昔から明治までの日本は連合国家みたいなもんだったんだなあ。

『プラダを着た悪魔』とジャーナリストという生き方

アタクシも若手の時にこういうボスに仕えたことがあります。

というか、どこの会社にもこういう仕事が出来て部下に理不尽な上司は一人くらいはいるんでしょうね。

でも会社に多いのは、仕事ができないのに理不尽な、プラダを着こなせない「悪魔の手先」ってやつね。

ただ、全然別なことも心に残りました。それはジャーナリズムに対するこの映画のスタンスです。


プラダを着た悪魔 予告編

 

以下、ネタバレあり。

 

物語の終盤、すっかり気配り目配り段取りのしっかりした仕事のできるようになったアンドレアにミランダが言います。「あなたは私と似ているわ。人が何を求め必要としているかを超え、自分のために決断できる。」 この台詞は、現代のビジネスパーソンの生き方のエッセンスを恐ろしいほど適切に表しています。消費者のニーズを満たすために仕事があり、その仕事の制約の中で自分の希望を叶えていく、そういう生き方です。メディア産業に限らず、メーカーも、流通業も、業種業界を問わず、企業で働く人は、すべからくそうした生き方を求められています。

 

ところがそんなミランダに対し、アンドレアは「私は違います」ときっぱりと言い放ちます。彼女は、ジャーナリストとして生きることは、ビジネスパーソンの生き方とは両立しないことを悟ったのです。まず市場つまりは他人が構成する社会があり、その中で自己実現をするビジネスパーソンに対し、まず自分があり、自分の目を基軸に他人の構成する社会を批評するジャーナリスト。アンドレアはジャーナリストの生き方を自覚し、それを選びました。

 

ビジネスパーソンの生き方に同化してはジャーナリストは成り立たないことを悟ったからこそ、アンドレアは直前まで同情しリスペクトしていたミランダの自己犠牲的な仕事の鬼としての生き方に対し、携帯を投げ捨てるという切り捨て方をしたのです。

 

これに対し、ミランダは、なんととても寛大な対応をします。アンドレアの転職希望先である新聞社からの問い合わせに対し、「採用しなければ大バカだ」とFAXしたのです。自分を否定したアンドレアになぜ?

 

アンドレアが他人のために生きるという生き方をマスターしたからこそ、ミランダはそのようなアンドレアにミーイズムを越えたジャーナリストになって欲しかったのだと思います。

 

編集長であるミランダの立場は、ファッションジャーナリズムに身を置きながらも、雑誌の売り上げの全責任をおっている点でビジネスパーソンの立場そのものです。ビジネスの世界に生きる者の多くは、己の生きる世界の愚かさと限界とをよく知っています。しかし現状のミーイズム溢れるジャーナリズムは、世の中をかき混ぜこそすれ健全な方向に導いてくれることはありません。ミーイズムでない生き方を体得したアンドレアは、ミランダの希望なのです。この映画にはビジネス界からジャーナリズムに対する皮肉と異議申し立てと希望のメッセージを含んでいるように思えてなりません。

 

…。それにしても、会社持ちで最高の服が選び放題、着放題なら体型ぐらい男の私だって変えますよ。