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『アナと雪の女王』主題歌"Let It Go"を日本語に訳してみた

アナと雪の女王』の評判が凄いです。中森明夫のコラム(REAL-JAPAN » 「中央公論」掲載拒否! 中森明夫の『アナと雪の女王』独自解釈)を読んだら私も見に行きたくなってしまいました。
もともとこの週末に妻が幼稚園の娘を連れて行く約束をしていたので、明日は私も便乗して映画館に行きましょう。

さてさてこの映画、松たか子の歌はいいけれど、日本語詩は「ありのままの自分になって♪」でレリゴーがLet it be! になっちゃってるよ、なんてことも聞いていたので、ネットで見てみると、確かに日本語版の歌詞は英語版に忠実というよりは、音の響きを重視した翻訳になっているようです。ディズニーの公式日本語訳や個人の私訳もBlogにいくつか発見しましたが、どの訳も友人から聞いていた抑圧からの解放の私のイメージとちょっと違う。私も日本語訳してみよう。乗るしかない、このビッグウェーブに。

と言うわけでワタクシ訳Let It Goです。倒置とか、Itの使い方とか、イディオムとか、いちおう受験生も納得の訳にしたつもりです。久しぶりに学生気分でリフレッシュしました。^^;;



"Let It Go"


The snow glows white on the mountain tonight
Not a footprint to be seen
A kingdom of isolation, and it looks like I’m the Queen
The wind is howling like this swirling storm inside
Couldn’t keep it in; Heaven knows I’ve tried


今夜、この山を雪が白く染め上げる
足跡一つ見えなくなる 孤独の王国
そして私はその女王となるんだわ
風は私の中のこの逆巻く嵐のように唸りを上げてる
どうしてもどうしても抑えておけなかった 
天国は私が頑張ってきたことを知ってるわ


Don’t let them in, don’t let them see
Be the good girl you always have to be
Conceal, don’t feel, don’t let them know
Well now they know


他人を入れてはいけない、他人に見せてはいけない
いつも隠してなければダメよい子でいなさい
感じてはダメ 知られちゃいけない
でも もう 知られてしまった


Let it go, let it go
Can’t hold it back any more
Let it go, let it go
Turn away and slam the door
I don’t care what they’re going to say
Let the storm rage on
The cold never bothered me anyway


全開よ 全開よ
どうしてももうこれ以上我慢できないわ
行っちゃえ 行っちゃえ
にべもなく扉をピシャリと閉めてしまえ
誰が何を言おうと知ったこっちゃないわ
嵐よ吹き狂え!
寒さに凍えたことなんてまるでないもの


It’s funny how some distance
Makes everything seem small
And the fears that once controlled me
Can’t get to me at all


こんなちょっとした距離が、全てを小さく見せちゃうのって おかしいわね
これまで私を振り回していた恐れは、もう私には届かない


It’s time to see what I can do
To test the limits and break through
No right, no wrong, no rules for me,
I’m free!


限界を試し打ち破るために私が何をできるか、いまわかるわ
私には善も、悪も、規則もない
私は自由なの!


Let it go, let it go
I am one with the wind and sky
Let it go, let it go
You’ll never see me cry
Here I stand
And here I’ll stay
Let the storm rage on


全開よ 全開よ
私は風と空とともにある
たぎってるわ 行っちゃうわバカヤロー*
もう私が泣くところを見ることはないわ
ここに私は立つ
私はここに居るわ
嵐よ吹き狂え!


My power flurries through the air into the ground
My soul is spiraling in frozen fractals all around
And one thought crystallizes like an icy blast
I’m never going back, the past is in the past


私の力は果てるまで大気を震わせるわ
私の魂はあたり一面の雪の結晶の中に渦巻くの
そして思いが氷の爆発のように結晶となる
決して後戻りしないわ 過去は過去に置いていく


Let it go, let it go
And I’ll rise like the break of dawn
Let it go, let it go
That perfect girl is gone
Here I stand
In the light of day
Let the storm rage on
The cold never bothered me anyway!


全開よ 全開よ
私は夜明けのように立ち上がるわ
全開よ 全開よ
あの完璧な女の子はもういない
愛と栄光の光の中 ここにいるのは私
嵐よ吹き狂え
寒さに凍えたことなんてまるでないわ!


註*  inspired by Shinsuke.Nakamura and Satoshi.Kojima


山中千尋(トリオ)のビートルズ


世間的には超が付くメジャーだけれども、どうにも自分にはピンと来ない音楽がある。クラシックではモーツァルトがそうだし、ポピュラーではビートルズがそうだ。


自分のことをへそ曲がりだとは思いたくないので、なんとかそれらとの和解を探索してきた。そうして出会ったのがグールドの弾くモーツァルトで、今日、幸いなことに山中千尋の弾くビートルズに出会うことができた。


山中千尋はNYを拠点とするバークリー音楽院首席で卒業したジャズピアニストだそうだ。私はジャズは半可通なので、つい最近まで山中千尋の存在を知らなかった。ふだんコルトレーンやオスカーピーターソンなどのかつての巨匠ばかり聴いている私は、王や長島は知っていてもマー君を知らなかったようなものかもしれない。ごめんなさい。


さて、山中氏はいろいろなカバーアルバムを出している。その中の一枚が『Because』というビートルズのカバーである。これが凄い。


例えば、Yesterday。


ナイーブなイギリス人がアフリカの旧植民地に連れてこられて説教くらってるみたいなアレンジだ。クールなイントロからアフリカンなドラムに引き継がれ、その中に借りてきた猫のようなピアノの音でYesterdayのメロディが奏でられる。これではまるでビートルズはさらし者ではないか。


でもかっこいいのだ。イギリスにとってのイエスタディは大英帝国時代だってことを思い出せ、か。そしてジャズはアフリカンをルーツとする音楽だ。なんという諧謔。なんという皮肉。市中引き回しのように演奏されるビートルズを、誰が想像できようか。


ビートルズのジャズアレンジは、同じヨーロッパ人のウォルター・ラング・トリオも出しているが、こっちのYesterdayはビートルズ愛に溢れすぎてイージーリスニングのようだ。山中を聴いた後ではダサさが際立ってしまう。


対象をリスペクトしながら時には小馬鹿にしているのかと思えるほどに洒脱に翻弄する、そんな愛情表現は、モンティ・パイソンを産んだイギリス人相手だったら許されるはずである。この悪戯心に溢れた知的な所業は、どこかで聴いたことがあるぞ、と思っていたら山下洋輔を思い出した。ああ、この人はまごうかたなき日本のジャズの系譜の人なんだと思ったら余計に嬉しくなってきた。山中千尋、遅ればせながらこれから注目していきたい。


ビコーズ

ビコーズ


アクロス・ザ・ユニバース?ビートルズ・ソング・ブック

アクロス・ザ・ユニバース?ビートルズ・ソング・ブック


グールドのモーツァルト

音楽というのは難しい。大学生の時、バイオリンを弾く女性の友達がいたのだが、僕の音楽の趣味のせいで友達関係を失ったことがある。


僕はパッヘルベルのカノンが好きで、中でも一番好きな演奏はイ・ムジチの1982年の録音のやつで、彼女にCDを貸したらテンポが速くて演奏が間違ってると言うんだな。僕は楽器をやらないので、気持ちよく聞ける演奏が僕にとっての最高の演奏なのだけれど、オーケストラに入っている彼女にとっては、楽譜に書いていない演奏は、音楽に対する許し難い冒涜なのだそうだ。


今日、クルマを流していたらNHK-FMで、僕の嫌いなモーツァルトがとっても素敵な演奏で流れてきたので誰だろうと思ったらグールドだった。そういえば彼女はアシュケナージが好きだったな。グールドは、モーツァルトが嫌いだった。嫌いな作曲家の曲を、嘲笑し愚弄するように自分の才能を全開にして弾く。こういう演奏を諧謔というのだと思う。選択の自由が同質結合を強め、世知辛くなった最近の世の中に必要なのはこういう諧謔だと思うんだけどどうだろう。
嫌いな奴と組んで大向こうをうならせるようなのが好きだ。音楽もスポーツも政治も仕事でも。


Pachelbel : Canon / Mozart : Eine kleine Nachtmusik / Albinoni / Adagio

Pachelbel : Canon / Mozart : Eine kleine Nachtmusik / Albinoni / Adagio


Complete Piano Sonatas

Complete Piano Sonatas

『アリゾナ・ドリーム』(1993年/米・仏/エミール・クストリッツァ)


私の大好きな映画監督の一人、エミール・クストリッツァが、フェィ・ダナウェイとジョニー・デップを主演に撮った映画が『アリゾナ・ドリーム』である。


もう20年も前の映画だが、私が人生の他山の石としている作品である。ストーリーはこんな感じ。


アクセル(ジョニー・デップ)の夢はアラスカでおひょうを釣り上げることである。そんなアクセルは、キャディラックのディーラーをしている叔父レオの結婚式の介添人としてアリゾナに呼ばれる。結婚式のあと、レオの希望もあってアクセルはディーラーの手伝いを始める。そんなアクセルの前に、未亡人のエレイン(フェィ・ダナウェイ)と義理の娘グレースが現れる。エレインには大空を飛びたいという夢があった。アクセルはエレインに一目惚れしてしまう。アクセルはエレインの夢を叶える為に、二人で飛行機を作り始める・・・。


この映画に出てくる人々は主役の二人に限らず誰もが夢を持っている。現実的な夢、幻想的な夢・・・。そして自分の夢と他人の夢が交わるとき、その夢は生き物のように育ち動き始める。


なぜ、この映画が他山の石となるのか、ぜひ本作を見てもらいと思う。私のネタバレ付きの本作のレビューはcinemascapeの方に書いてあるので、本編を見た後に、気が向いたら読んでみて下さい。→CinemaScape/Comment: アリゾナ・ドリーム


★★★★☆(私の人生の他山の石)


■おひょうは、巨大なものになると体調2〜3m、体重200kgほどになるカレイの仲間だ

(写真は70歳の釣り人、極寒の海で体長2.5mのオヒョウを釣り上げ世界記録更新 - GIGAZINEより)


『君を呼んだのに』RCサクセション

不覚にも今朝、通勤途中ビルの谷間を会社へ歩いているとき、この曲の歌詞の意味を理解した、と思った。30年前の曲である。実に30年もこの曲の歌詞がひっかかっていたのだ。

「君を呼んだのに」


バイクを飛ばしてもどこへも帰れない
バイクを飛ばしても帰りつづけるだけのぼくらは
寄り道をしてるんだ


描き上げたばかりの自画像をぼくに
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが見せる
絵の具の匂いにぼくはただ泣いていたんだ


自動車(クルマ)はカバのように潰れていたし
街中が崩れた


それで君を呼んだのに
それで君を呼んだのに
それで君を呼んだのに
君の愛で間に合わせようとしたのに


ずっとひっかかっていたのは、歌の最後のフレーズである「君の愛で間に合わせようとしたのに」の解釈だった。


普通に考えれば、何か本当に必要なものがないので当座しのぎに「君の愛」でなぐさみものにしようとしたのに、という解釈しかないように思う。そうとしかとれない、と思っていた。本命が他にいるのに、あるいは「君」をそれほど気に入ってはいないのに、「君の愛」で当座をしのごうと思ったのにそれもできなかった、という歌なのだと思っていた。


だが、何かがひっかかっていた。そうではない気がずっとしていた。


男が泣いた後、三回繰り返す「それで君を呼んだのに」。その「君」の他に本命がいるというのは考えがたい。となると「君」は、それほど気に入ってはいないのに、他よりは一番マシな存在ということになる。


だが、その解釈では切実なメロディーとしっくりこないのだ。清志郎の曲は歌詞と分かちがたい。詩とメロディーがしっくりこないというのはありえない。となれば僕の詩の解釈が間違えているはずなのだ。


当座をしのぐのが他よりは一番マシな「君の愛」であるなら、誰の愛が本当に求めている愛なのか?きっと聖母マリア的な理想の存在なのだろう、あるいは清志郎の産みの母親のことなのではないか、とずっと解釈してきた。論理的にはこれで筋が通る。だが、それはストレートな解釈ではない。あまりにわかりにくい。清志郎は、わかりにくい歌詞は書かない。それで、ずっとひっかかってきた。


それが、今朝、突然わかった。「間に合わせようとした」の「間に合わせ」は、「間に合う/間に合わない」の「間に合わせる」とのダブルミーニングだったのだ。


君が呼んですぐ来てくれたなら間に合ったのに、君は来なかった、あるいは遅れてきた。だからもう君の愛は手遅れで、僕はもう君の愛では救われないような状態になってしまっている、、、。そう解釈して30年ぶりに腑に落ちた。言うまでもなく清志郎ダブルミーニングの屈指の使い手である。それなのにこのダブルミーニングに30年も気がつかなかったのは不覚だった。


もちろん、これも間違えた解釈かもしれない。だが、腑に落ちたということは僕にとって正しい解釈なのだ。そしてそのような解釈も正しい解釈だ、と思う。その根拠は、「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが見せる絵の具の匂い」にある。絵と同じ鑑賞法をこの曲に対しても取ってよい、というメッセージがこの歌詞にはこめられていると思うのだ。


ビルの谷間を会社に向かって歩いていたとき、私の脳内には『君をよんだのに』が流れ、同時にヴィンセント・ヴァン・ゴッホの『裏返しの蟹』が油絵の具の匂いを漂わせていた。カバのように潰れた自動車と崩れた街並み、一瞬にして帰る場所を失った若者の乗るバイク、それら全てが311の光景に思われ、胸がつぶれた。







■このアルバムの9曲めに入っている

BEAT POPS

BEAT POPS

『特権的肉体論』唐十郎

肉体に依らない疲れが肉体に霞のように残るとき、芝居が見たくなる。とはいっても、会社帰りに都合よく芝居がやっているわけはないし、映画では代替にならぬ。そんなとき、酒を飲みながら本棚の唐十郎の本に手を伸ばす。


特権的肉体論』ーー。

昔、吉本隆明が、魚屋のカミさんは魚を売って革命を知れといったが、役者が役者修業をもって革命を知るほどにも、役者の器は研ぎすまされたことはない。ということは、かつての役者の肉体が特権的に何かを語ったことがない。あるいは、その役者群による表現課程が未踏の境地に踏みこんだこともないということになる。ならば、劇的なる精神などという言葉は、一体、誰が語っているのか。(中略)劇的なる精神は別にあらねばならぬ。特権的肉体こそが、言葉を案内してゆかねばならないのだ。(『特権的肉体論』18頁)


私は吉本隆明に影響された世代ではないので、パパばななとしてしかしらないが(といってもばななもよく知らない世代である)それでも、その公害論は脳裏に刺さったままである。


吉本は、公害が社会問題になるのは、産業の主役が交代するときだと言う。農林水産業つまり第一次産業が工業つまり第二次産業にとってかわられた時代に、地盤沈下や大気汚染、水質汚濁といった公害が社会問題になった。それは、第二次産業第一次産業を生み出す基盤を毀損したからだという。そして、第二次産業第三次産業に主役交代するときの公害は、「精神の障害の問題」(吉本まま)だというのだ。(「現代を読む」『大情況論』1992.3弓立社に収録より)


第二次産業を生み出す基盤は肉体ではないのか?


そして、「精神の障害の問題」が公害として立ち現れているのは今ではないのか?


さすれば、今は第三次産業第四次産業に主役交代するときなのではないだろうか?


インターネットの普及によって決定的になったバーチャルな世界をフィールドとする産業が第四次産業といえまいか。


念頭にあるのは、バットマンのジョーカーを名乗った乱射事件だったりする。


吉本の公害論から、第三次産業第四次産業の境界を思い、特権的肉体論を手がかりに、第四次産業へのソフトランディングを考える。


こういう時に飲む酒は、シングルモルトだ。


特権的肉体論

特権的肉体論


「真珠の耳飾りの少女」見てきました


東京都美術館に「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」(http://www.asahi.com/mauritshuis2012/)を見に行った。目玉展示はフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」(1666年?)である。




■実物から受ける印象は下の絵とは全く違う




実は、この展示に先駆けて、先日フェルメールセンター銀座(あっぱれ北斎! 光の王国展 | フェルメール・センター銀座 Vermeer Center Ginza)に行ってきた。こちらは、フェルメールの全37作品を、当時の色とコントラストを最新のデジタル技術で再現することを試みたレプリカの展覧会である。全ての作品が時系列に展示されていることにより、フェルメールが何を描こうとしたのか、その意図をあきらかにしようとする解析的な展示会である。


私は、フェルメールは、どのようなモチーフの絵を描いたとしても全て宗教画として描かれていると思っている。


さておき、レプリカの「真珠の耳飾りの少女」と、実物の「真珠の耳飾りの少女」は別物であった。誰のどんな絵であっても、画集の絵と実物の絵は別物であるのだが、フェルメールの絵は、気配を描くことを主題としている点で、例えばレンブラントの絵が、画集と実物とは別物だ、ということとは別の意味で、別物なのである。この意味で、私はフェルメールは何をモチーフに描いたとしても宗教画家なのだと思っている。


同じような思いをルーベンスにも感じる。彼の絵にも気配を感じる。画集にはそれがない。絵に気配を描き込むのは、ひとつにはテクニックの問題である。ルーベンスフェルメールもオランダの画家で、生きた時代も少し重なっている。当然、テクニックも一部共用されている。


しかし、絵に気配を描き込むことを目的としなければ、絵に気配は描き込まれない。同じテクニックを用いても、他の同時代のオランダの画家とはその点に違いがあると思う。まあ、フォーカスの違いを、異なるテクニックと解釈してしまえば微妙な問題になるのかもしれないが。それでも私は、気配の描き込まれた絵に惹かれてしまうのである。