『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』は、やっぱりQ文書だった!?
「序」「破」ときて「Q」ですか。死海文書をネタとして扱ったエヴァだからQは当然Q文書だろうなと思って見たらやっぱりそうだった。期待を裏切らない期待の裏切られかたに★5です。ということでQ文書について書きます。
Q文書、すなわち聖書のパラレルワールドは、親鸞の唱える世界観に近い。悪人正機でこそシンジも碇ゲンドウも救われる。神に寿命があるという考えも古代仏典っぽくて好き。この世界観には乗れる。いやーわかりやすいエヴァいいわあ…と勝手に思っていますが、この解釈でいいんだろうか。『:||』楽しみです。
さて、以下「Q文書」とされているものからの抜粋です(バートン・L・マック著「失われた福音書」 青土社より) 。
---ここから---
■「何と幸運な者だ、泣いている者は。彼らは笑うだろう。」(QS8「幸運な者について」)
■「おまえたちに言っておこう。敵を愛し、呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈ってやれ。」(QS9「非難への応答について」)
■「裁くな、そうすれば、裁かれないですむ。おまえたちが「裁きに」使う物差しが、逆におまえたちを裁く物差しになるからだ。」(QS10「裁くことについて」)
■「隠されているもので知られずに済むものはなく、明るみに出ない秘密はない。」(QS35「はっきりと言え」)
■「父や母を憎まない者は、わたしから学ぶことは出来ない。娘や息子を憎まない者は、わたしの弟子になれない。」(QS52「弟子となるための代価について」)
---ここまで---
でも、ヴィレが出てきて物語の構造がナウシカ(漫画版)に似てきたような気がするのは気のせいでしょうか。
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グールドのモーツァルト
音楽というのは難しい。大学生の時、バイオリンを弾く女性の友達がいたのだが、僕の音楽の趣味のせいで友達関係を失ったことがある。
僕はパッヘルベルのカノンが好きで、中でも一番好きな演奏はイ・ムジチの1982年の録音のやつで、彼女にCDを貸したらテンポが速くて演奏が間違ってると言うんだな。僕は楽器をやらないので、気持ちよく聞ける演奏が僕にとっての最高の演奏なのだけれど、オーケストラに入っている彼女にとっては、楽譜に書いていない演奏は、音楽に対する許し難い冒涜なのだそうだ。
今日、クルマを流していたらNHK-FMで、僕の嫌いなモーツァルトがとっても素敵な演奏で流れてきたので誰だろうと思ったらグールドだった。そういえば彼女はアシュケナージが好きだったな。グールドは、モーツァルトが嫌いだった。嫌いな作曲家の曲を、嘲笑し愚弄するように自分の才能を全開にして弾く。こういう演奏を諧謔というのだと思う。選択の自由が同質結合を強め、世知辛くなった最近の世の中に必要なのはこういう諧謔だと思うんだけどどうだろう。
嫌いな奴と組んで大向こうをうならせるようなのが好きだ。音楽もスポーツも政治も仕事でも。
Pachelbel : Canon / Mozart : Eine kleine Nachtmusik / Albinoni / Adagio
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クストリッツァの『アリゾナ・ドリーム』を他山の石に生きる
私の大好きな映画監督の一人、エミール・クストリッツァが、フェィ・ダナウェイとジョニー・デップを主演に撮った映画が『アリゾナ・ドリーム』である。
もう20年も前の映画だが、私が人生の他山の石としている作品である。ストーリーはこんな感じ。
Arizona Dream - Trailer (1993)
『君を呼んだのに』RCサクセション
不覚にも今朝、通勤途中ビルの谷間を会社へ歩いているとき、この曲の歌詞の意味を理解した、と思った。30年前の曲である。実に30年もこの曲の歌詞がひっかかっていたのだ。
「君を呼んだのに」
バイクを飛ばしてもどこへも帰れない
バイクを飛ばしても帰りつづけるだけのぼくらは
寄り道をしてるんだ
描き上げたばかりの自画像をぼくに
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが見せる
絵の具の匂いにぼくはただ泣いていたんだ
自動車(クルマ)はカバのように潰れていたし
街中が崩れた
それで君を呼んだのに
それで君を呼んだのに
それで君を呼んだのに
君の愛で間に合わせようとしたのに
ずっとひっかかっていたのは、歌の最後のフレーズである「君の愛で間に合わせようとしたのに」の解釈だった。
普通に考えれば、何か本当に必要なものがないので、当座しのぎに「君の愛」でなぐさみものにしようとしたのに、という解釈しかないように思う。そうとしかとれない、と思っていた。本命が他にいるのに、あるいは「君」をそれほど気に入ってはいないのに、「君の愛」で当座をしのごうと思ったのに、それもできなかった、という歌なのだと思っていた。
だが、何かがひっかかっていた。そうではない気がずっとしていた。
男が泣いた後、三回繰り返す「それで君を呼んだのに」。その「君」の他に本命がいるというのは考えがたい。となると「君」は、それほど気に入ってはいないが、他よりは一番マシな存在ということになる。
だが、その解釈では切実なメロディーとしっくりこないのだ。清志郎の曲は、メロディーと歌詞とが分かちがたい。詩とメロディーがしっくりこないというのはありえない。となれば僕の詩の解釈が間違えているはずなのだ。
当座をしのぐのが他よりは一番マシな「君の愛」であるなら、誰の愛が本当に求めている愛なのか? きっと聖母マリア的な理想の存在なのだろう、あるいは清志郎の産みの母親のことなのではないか、とずっと解釈してきた。論理的にはこれで筋が通る。だが、それはストレートな解釈ではない。あまりにわかりにくい。清志郎は、わかりにくい歌詞は書かない。それで、ずっとひっかかってきた。
それが、今朝、突然わかった。「間に合わせようとした」の「間に合わせ」は、「間に合う/間に合わない」の「間に合わせる」とのダブルミーニングだったのだ。
君が呼んですぐ来てくれたなら間に合ったのに、君は来なかった、あるいは遅れてきた。だからもう君の愛は手遅れで、僕はもう君の愛では救われないような状態になってしまっている、、、。そう解釈して30年ぶりに腑に落ちた。言うまでもなく清志郎はダブルミーニングの屈指の使い手だ。それなのにこのダブルミーニングに30年も気がつかなかったのは不覚だった。
もちろん、これも間違えた解釈かもしれない。だが、腑に落ちたということは僕にとって正しい解釈なのだ。そしてそのような解釈も正しい解釈だ、と思う。その根拠は、「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが見せる絵の具の匂い」にある。絵と同じ鑑賞法をこの曲に対しても取ってよい、というメッセージがこの歌詞にはこめられていると思うのだ。
ビルの谷間を会社に向かって歩いていたとき、私の脳内には『君をよんだのに』が流れ、同時にヴィンセント・ヴァン・ゴッホの『裏返しの蟹』が油絵の具の匂いを漂わせていた。カバのように潰れた自動車と崩れた街並み、一瞬にして帰る場所を失った若者の乗るバイク、それら全てが一年半前の311の光景に思われ、胸がつぶれた。
清志郎は未来を見ていたのだ、と思った。『君を呼んだのに』は、果たせなかった未来への警鐘の歌だったのだ。
■このアルバムの9曲めに入っている
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『特権的肉体論』唐十郎
肉体に依らない疲れが肉体に霞のように残るとき、芝居が見たくなる。とはいっても、会社帰りに都合よく芝居がやっているわけはないし、映画では代替にならぬ。そんなとき、酒を飲みながら本棚の唐十郎の本に手を伸ばす。
『特権的肉体論』ーー。
昔、吉本隆明が、魚屋のカミさんは魚を売って革命を知れといったが、役者が役者修業をもって革命を知るほどにも、役者の器は研ぎすまされたことはない。ということは、かつての役者の肉体が特権的に何かを語ったことがない。あるいは、その役者群による表現課程が未踏の境地に踏みこんだこともないということになる。ならば、劇的なる精神などという言葉は、一体、誰が語っているのか。(中略)劇的なる精神は別にあらねばならぬ。特権的肉体こそが、言葉を案内してゆかねばならないのだ。(『特権的肉体論』18頁)
私は吉本隆明に影響された世代ではないので、パパばななとしてしかしらないが(といってもばななもよく知らない世代である)それでも、その公害論は脳裏に刺さったままである。
吉本は、公害が社会問題になるのは、産業の主役が交代するときだと言う。農林水産業つまり第一次産業が工業つまり第二次産業にとってかわられた時代に、地盤沈下や大気汚染、水質汚濁といった公害が社会問題になった。それは、第二次産業が第一次産業を生み出す基盤を毀損したからだという。そして、第二次産業が第三次産業に主役交代するときの公害は、「精神の障害の問題」(吉本まま)だというのだ。(「現代を読む」『大情況論』1992.3弓立社に収録より)
第二次産業を生み出す基盤は肉体ではないのか?
そして、「精神の障害の問題」が公害として立ち現れているのは今ではないのか?
さすれば、今は第三次産業が第四次産業に主役交代するときなのではないだろうか?
インターネットの普及によって決定的になったバーチャルな世界をフィールドとする産業が第四次産業といえまいか。
念頭にあるのは、バットマンのジョーカーを名乗った乱射事件だったりする。
吉本の公害論から、第三次産業と第四次産業の境界を思い、特権的肉体論を手がかりに、第四次産業へのソフトランディングを考える。
こういう時に飲む酒は、シングルモルトだ。
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- 作者: 吉本隆明
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「真珠の耳飾りの少女」見てきました
東京都美術館に「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」(http://www.asahi.com/mauritshuis2012/)を見に行った。目玉展示はフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」(1666年?)である。
実は、この展示に先駆けて、先日フェルメールセンター銀座(あっぱれ北斎! 光の王国展 | フェルメール・センター銀座 Vermeer Center Ginza)に行ってきた。こちらは、フェルメールの全37作品を、当時の色とコントラストを最新のデジタル技術で再現することを試みたレプリカの展覧会である。全ての作品が時系列に展示されていることにより、フェルメールが何を描こうとしたのか、その意図をあきらかにしようとする解析的な展示会である。
私は、フェルメールは、どのようなモチーフの絵を描いたとしても全て宗教画として描かれていると思っている。
さておき、レプリカの「真珠の耳飾りの少女」と、実物の「真珠の耳飾りの少女」は別物であった。誰のどんな絵であっても、画集の絵と実物の絵は別物であるのだが、フェルメールの絵は、気配を描くことを主題としている点で、例えばレンブラントの絵が、画集と実物とは別物だ、ということとは別の意味で、別物なのである。この意味で、私はフェルメールは何をモチーフに描いたとしても宗教画家なのだと思っている。
同じような思いをルーベンスにも感じる。彼の絵にも気配を感じる。画集にはそれがない。絵に気配を描き込むのは、ひとつにはテクニックの問題である。ルーベンスもフェルメールもオランダの画家で、生きた時代も少し重なっている。当然、テクニックも一部共用されている。
しかし、絵に気配を描き込むことを目的としなければ、絵に気配は描き込まれない。同じテクニックを用いても、他の同時代のオランダの画家とはその点に違いがあると思う。まあ、フォーカスの違いを、異なるテクニックと解釈してしまえば微妙な問題になるのかもしれないが。それでも私は、気配の描き込まれた絵に惹かれてしまうのである。
ありがとう『今日の中吊り』
8月が終わり、いろいろな終わりがあった。ブログで書けないような終わりもあり、そうでない終わりもあり。今年の8月31日は、例年になく終わりを感じさせる日であった。
『岳』も最終刊が出たしね。最近漫画雑誌を買う習慣がなくなってしまったので(いい歳のおっさんだしね)、『岳』は毎回単行本が出るのを楽しみにしていた。なのに、最終刊だけ主人公の行動パターンが変わるというちょっとひどい終わり方をしてしまった。ゴルゴが利き腕をあずけるような握手したためにやられちゃっておしまい、みたいな。
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あと8月31日で終わってしまったものとして、『今日の中吊り』というiPhoneアプリ連動サービスがあります。その名もずばり、駅の中吊り広告をiPhoneで見ることのできるサービスでした(意外と目に付く交通広告)。
昨年に今の会社に出向して、JRもメトロも利用する機会がなくなってしまった私としては、駅の中吊りがiPhoneで読めるというのは、通勤の密かな楽しみだったわけです。んー残念。
私鉄で通勤するようになって初めて知ったのだけれど、いろいろな雑誌の中吊りが日々楽しめるのはJRかメトロの特権だったのですね。このあたりが、つまりユーザー層があるエリアに閉じられていることが、サービス終了の原因の一つにあったのかもしれませんね。
ありがとう『今日の中吊り』。そして、ありがとう8月31日でさよならになってしまったすべて。
■iPhoneアプリのアイコンはこんな感じ